4-8-3. 苦痛は、ときに快と並び、総合・混合状態になる
苦痛は、多く単独で経過するが、ときに快と平行する。単に平行、同時進行することもあれば、混合状態になることもある。平行するだけであっても、無関係とはいえず、快と不快は、反対の感情として、相殺し合うのが普通である。絶望の苦悩にあっても、美味しいものの快をいだけば、その快によって、苦悩は、その苦痛を和らげることになる。極端には、酒などの麻薬を使えば、その快楽をもって絶望の苦悩をその麻薬の効いている間、忘れることもできる。生理的な快不快と精神的なそれらは、異なった領域で無関係の働きをしているけれども、感情としては快か不快かで、同じ一つの身体の生理的反応をもち、相殺しあうものともなる。絶望で委縮し生気を失った状態にある身体に、味覚の快楽が与えられると、快の身体反応は、生き生きとした身体となりのびやかになるから、絶望の身体反応に抑止的に働き、相殺する。
快と不快・苦痛は、外的に関わるだけではなく、快の中身に苦痛の関与してくる場合もある。快が中心になっている食事など、若干の苦痛・不快がともなうことで、その味わいを豊かなものにし、快を一層際立たせてくれる。甘いスイカに塩を振ると、甘味が一層引き立ち美味しさを増す。遊びで愉快な感情を求めるとき、しばしば反対の不快な感情をもってする。ジェットコースターとか、バンジージャンプは、最後は、弛緩の安堵の快楽に浸るのであろうが、弛緩、安心・安堵は、それだけでは生じないので、これを生じさせるために、危険への恐怖感、緊張感をまず抱かせ、そのあと、実は危険はないのだと安堵感を抱かせて愉快にする。ここでは快には苦痛が不可欠である。
生は、より高い自己の実現を求める。その代表的な姿は、自己否定・脱皮であろう。自己改革による発展である。古いものを破棄して新しいものを創造する。そこでは、新旧の間で、破壊があり、苦痛がともなう。古いものの破棄、否定には苦痛がともない、その苦痛を踏まえて新規の自己が創造される。創造の快には、破壊の苦痛が必然的にともなう。卒業は、嬉しいが、同時に友達や先生との別れの時でもあり悲しくもある。悲喜こもごもとなる。
脱皮といえば、蛇や昆虫は、文字通り脱皮をもってはじめて成長する。古いものを脱ぎ捨てなくては、その先の生はない。古いものを切り捨てるときには、古い側にあるものには、それは、破壊であり、苦痛となる。人間社会も同様であり、資本制が発達する途上では、封建的なものは、その発展の足かせとなり、廃棄しなくてはならなかった。破棄・廃棄されるものにとっては、自身の損傷・破壊として、苦痛となることであった。身分の高かった者には、大きな自己否定が迫られて耐えがたい苦痛を抱いたことであろう。が、それをしないと、新規の資本制社会に適応した生き方はできず、没落するのみであった。没落の苦痛をとるか、自身が封建的生き方をやめる苦痛をとるかであったろう。セミやバッタは脱皮・蝉脱の苦しみを乗り越えられなった場合は、死ぬ。生あるものの創造には、既存の生の否定、脱皮の苦痛を乗り越えていくことが必要となる。
苦痛は、多く単独で経過するが、ときに快と平行する。単に平行、同時進行することもあれば、混合状態になることもある。平行するだけであっても、無関係とはいえず、快と不快は、反対の感情として、相殺し合うのが普通である。絶望の苦悩にあっても、美味しいものの快をいだけば、その快によって、苦悩は、その苦痛を和らげることになる。極端には、酒などの麻薬を使えば、その快楽をもって絶望の苦悩をその麻薬の効いている間、忘れることもできる。生理的な快不快と精神的なそれらは、異なった領域で無関係の働きをしているけれども、感情としては快か不快かで、同じ一つの身体の生理的反応をもち、相殺しあうものともなる。絶望で委縮し生気を失った状態にある身体に、味覚の快楽が与えられると、快の身体反応は、生き生きとした身体となりのびやかになるから、絶望の身体反応に抑止的に働き、相殺する。
快と不快・苦痛は、外的に関わるだけではなく、快の中身に苦痛の関与してくる場合もある。快が中心になっている食事など、若干の苦痛・不快がともなうことで、その味わいを豊かなものにし、快を一層際立たせてくれる。甘いスイカに塩を振ると、甘味が一層引き立ち美味しさを増す。遊びで愉快な感情を求めるとき、しばしば反対の不快な感情をもってする。ジェットコースターとか、バンジージャンプは、最後は、弛緩の安堵の快楽に浸るのであろうが、弛緩、安心・安堵は、それだけでは生じないので、これを生じさせるために、危険への恐怖感、緊張感をまず抱かせ、そのあと、実は危険はないのだと安堵感を抱かせて愉快にする。ここでは快には苦痛が不可欠である。
生は、より高い自己の実現を求める。その代表的な姿は、自己否定・脱皮であろう。自己改革による発展である。古いものを破棄して新しいものを創造する。そこでは、新旧の間で、破壊があり、苦痛がともなう。古いものの破棄、否定には苦痛がともない、その苦痛を踏まえて新規の自己が創造される。創造の快には、破壊の苦痛が必然的にともなう。卒業は、嬉しいが、同時に友達や先生との別れの時でもあり悲しくもある。悲喜こもごもとなる。
脱皮といえば、蛇や昆虫は、文字通り脱皮をもってはじめて成長する。古いものを脱ぎ捨てなくては、その先の生はない。古いものを切り捨てるときには、古い側にあるものには、それは、破壊であり、苦痛となる。人間社会も同様であり、資本制が発達する途上では、封建的なものは、その発展の足かせとなり、廃棄しなくてはならなかった。破棄・廃棄されるものにとっては、自身の損傷・破壊として、苦痛となることであった。身分の高かった者には、大きな自己否定が迫られて耐えがたい苦痛を抱いたことであろう。が、それをしないと、新規の資本制社会に適応した生き方はできず、没落するのみであった。没落の苦痛をとるか、自身が封建的生き方をやめる苦痛をとるかであったろう。セミやバッタは脱皮・蝉脱の苦しみを乗り越えられなった場合は、死ぬ。生あるものの創造には、既存の生の否定、脱皮の苦痛を乗り越えていくことが必要となる。