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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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苦痛は、ときに快と並び、総合・混合状態になる

2025年07月22日 | 苦痛の価値論
4-8-3. 苦痛は、ときに快と並び、総合・混合状態になる   
 苦痛は、多く単独で経過するが、ときに快と平行する。単に平行、同時進行することもあれば、混合状態になることもある。平行するだけであっても、無関係とはいえず、快と不快は、反対の感情として、相殺し合うのが普通である。絶望の苦悩にあっても、美味しいものの快をいだけば、その快によって、苦悩は、その苦痛を和らげることになる。極端には、酒などの麻薬を使えば、その快楽をもって絶望の苦悩をその麻薬の効いている間、忘れることもできる。生理的な快不快と精神的なそれらは、異なった領域で無関係の働きをしているけれども、感情としては快か不快かで、同じ一つの身体の生理的反応をもち、相殺しあうものともなる。絶望で委縮し生気を失った状態にある身体に、味覚の快楽が与えられると、快の身体反応は、生き生きとした身体となりのびやかになるから、絶望の身体反応に抑止的に働き、相殺する。
 快と不快・苦痛は、外的に関わるだけではなく、快の中身に苦痛の関与してくる場合もある。快が中心になっている食事など、若干の苦痛・不快がともなうことで、その味わいを豊かなものにし、快を一層際立たせてくれる。甘いスイカに塩を振ると、甘味が一層引き立ち美味しさを増す。遊びで愉快な感情を求めるとき、しばしば反対の不快な感情をもってする。ジェットコースターとか、バンジージャンプは、最後は、弛緩の安堵の快楽に浸るのであろうが、弛緩、安心・安堵は、それだけでは生じないので、これを生じさせるために、危険への恐怖感、緊張感をまず抱かせ、そのあと、実は危険はないのだと安堵感を抱かせて愉快にする。ここでは快には苦痛が不可欠である。
 生は、より高い自己の実現を求める。その代表的な姿は、自己否定・脱皮であろう。自己改革による発展である。古いものを破棄して新しいものを創造する。そこでは、新旧の間で、破壊があり、苦痛がともなう。古いものの破棄、否定には苦痛がともない、その苦痛を踏まえて新規の自己が創造される。創造の快には、破壊の苦痛が必然的にともなう。卒業は、嬉しいが、同時に友達や先生との別れの時でもあり悲しくもある。悲喜こもごもとなる。
 脱皮といえば、蛇や昆虫は、文字通り脱皮をもってはじめて成長する。古いものを脱ぎ捨てなくては、その先の生はない。古いものを切り捨てるときには、古い側にあるものには、それは、破壊であり、苦痛となる。人間社会も同様であり、資本制が発達する途上では、封建的なものは、その発展の足かせとなり、廃棄しなくてはならなかった。破棄・廃棄されるものにとっては、自身の損傷・破壊として、苦痛となることであった。身分の高かった者には、大きな自己否定が迫られて耐えがたい苦痛を抱いたことであろう。が、それをしないと、新規の資本制社会に適応した生き方はできず、没落するのみであった。没落の苦痛をとるか、自身が封建的生き方をやめる苦痛をとるかであったろう。セミやバッタは脱皮・蝉脱の苦しみを乗り越えられなった場合は、死ぬ。生あるものの創造には、既存の生の否定、脱皮の苦痛を乗り越えていくことが必要となる。

苦痛や忍耐が目的自体となる場合もある

2025年07月15日 | 苦痛の価値論
4-8-2. 苦痛や忍耐が目的自体となる場合もある   
 ひとは、普通、苦痛を最終の到達点、成果・目的にはしないであろう。苦痛を受け入れるのは、目的としてではなく、目的のための手段・踏み台としてである。しかし、その踏み台・手段を手元に堅持するために意識・意志がこれを対象とし目指すもの=途中の小目的とすることはまれではない。心身の鍛錬では、大目的は能力向上であるが、意志する対象としての身近な目的は、苦痛の甘受、忍耐となる。懸垂をするとき、腕を曲げて体をもちあげるが、だんだんと辛いことになる。最終目的は腕力の強化だが、その時意識するのは、それではなく、その辛さを耐えること、「もう一回だけ」とその苦痛甘受を直近の目的にする(努力目標であるが、意識の集中をもってそれを行為する場面では、意識の目指し獲得すべき最終点としての目的となろう)。それでも、その一回の余分が生理的には有害と分かった場合は、それをやめるであろうから、主とした筋力増強という目的のもとでの、その目的を外れないで促進する限りでの、直近の目的ということになろう。 
 一般的には、苦痛をそれ自身において欲求対象=目的にすることはないが、特殊的に苦痛を求めることがある。被虐趣味の場合、苦痛を求める。マゾヒストは、苦痛を感受することを、自身から、普通の人が快を求めるように、求めることがあるという。逆に加害に快を見るサディストもいる。これは、弱い者いじめを典型として、学校や社会で、かなり一般的なことである。加虐は、自分を強者・支配者と感じうる状態になって、敗北と反対で、快になることであろう。サディストとマゾヒストは、ペアをなして、加虐を求め、被虐を求めるということで趣味がうまくかみ合うことになる。ただし、苦痛を求めるといっても、マゾヒストは、苦痛一般を求めているのではない。マゾヒズムは、「被虐性愛」と邦訳される。特殊な苦痛をもって性的快感を抱こうとするもののようで、目的は、苦痛ではなく、やはり、一般と同様に、快楽の方になるようである。  
 自虐というと、リストカットをして自分の腕を切るような者がいるが、これは、マゾヒストのように快を求めているのではなかろう。自己を否定的に捉え、死すべき屑と卑下して、自身で自身に苦痛の罰をあたえ、自身を破壊しようと企てる。なさけない自分(ひとは、自身を対象化できる)を破壊して攻撃する。苦痛=損傷を与えることを短絡的に自身の目的にしているといえるであろうか。が、これも心底から苦痛・損傷自体を求めているとまではいえないかも知れない。苦痛を加えて自身への加害を意思するが、苦痛自体をしみじみと感じ取りたいというようなものではなかろう。自己内でのサディスト的な動物的本性が満足するのであって、痛めつけられる自身の側は、その加虐を確かめるためのセンサー的役割を果たしているのであろう。だとすると、苦痛そのものを求めているのではなく、やはり快を求めているのであろうか。自暴自棄で、自分を痛めつけているのだが、それで、なさけない自分に懲罰を与えて、その暴発をもって、一時的に、すっきりするのである。
 自殺は、自分で自分を殺害するのだから、苦痛の極みとも見える。中には、罪の意識から自身に死刑をと責任を取ったり、仕事の失敗などで自己の敗北に耐えられず尊厳を失いたくないので、自身をそこで終わりにするようなこともある。罪の償いということでは、苦痛甘受が大きなものになることがあろうか。しかし、償いをもって安らぎを得ることが大きければ、苦痛を求めているとは言えないであろう。尊厳を保つということが大きければ、精神的な快となり、でなくても、精神的な苦痛(絶望とか慙愧・悲惨の苦悩)からは逃れているのである。リストカットなどの自虐の延長上に、なさけない自分を攻撃し殺害する自暴自棄の場合は、一面では、自己を破壊し自己に苦痛を与えることを求めているが、(自身への)攻撃欲求を充足しているのだとすれば、やはり、主要には、苦痛を求めたものとはならないであろう。卑屈ななさけない自分が痛むのを、「ざまあ見ろ」と自分に冷たい同情の涙をしながら自暴自棄のうっぷん晴らしをする。攻撃欲求を自己自身に向けたもので、破壊衝動を充足させているのである。自暴自棄(やけ)を英語などでは、絶望(despair)と表現するが、病苦で、もはや、苦痛以外にはなにも残っていないというような絶望における自死は、うっぷん晴らしの暴発ではなかろう。これは、自虐や自暴自棄ではなく、耐えがたい苦悩・苦痛を根絶しようと内省的で、穏やかに苦痛の無化を求めるものであろうか。安らかな無を求めての(安楽)死である。

ひとつの苦痛(手段)は、目的をいくつももっている

2025年07月08日 | 苦痛の価値論
4-8-1-1. ひとつの苦痛(手段)は、目的をいくつももっている
 現実の目的論的展開では、一つの手段は、かならずしも一つの目的には限定されない。ひとつの目的をたてて、それのためにひとつの手段、苦痛甘受を選んだとしても、しばしば多くの目的をそこに併存させることになる。忍耐が手段として引き受ける具体的現実の苦痛は、多様な側面をもち、多くの働き・機能をもつ。したがって、多くのことを多方面に結果しうるから多様な目的が描ける。学校で辛い勉強を頑張るとしても、目的をひとつだけにすることは稀であろう。第一には自分の学力を高めることを目的にするが、それは、あまり意識にのぼる大きな目的にはならず、進学を目的にしたり、親を喜ばすことを目的にしたり、担任の教師を驚かしたりライバルの級友に勝つこと等、たくさんの目的を並列させることである。
 まずは、目的論的な日々の営為は、目的を立ててのちに手段にむかう。洗面台の前にたつという手段は、それに先立って髭を剃ろうという目的を立ててのことである。だが、洗面台に立って手段を実行しはじめると、別の目的も思い描くことである。歯も磨こうとか、髪の手入れを等と、目的を種々後づけする。手段を実際に実行するなかで、見えていなかったものが見えてもくる。洗面台に立ってはじめて鏡が汚れていると分かればこの際髭剃りのあと磨いておこうということにもなる。ついでに洗面台全体をきれいにしようとか、くもっているのはメガネのせいかもとこれも拭こうと思いつくかもしれない。顔の汚れを見つけて、顔をよく洗おうと考えたり、髪の毛の薄くなっていることで、暇を見つけて発毛剤についてウェブでチェックしようと目的をさらに後づけしていく。そのなかで、いくつかの描いた目的は失念して洗面台を後にするというようなことも起こる。 
 途中の手段でも、一層細かな手段の展開をして多様多彩となる。髭をそるのは、面倒で苦痛だとしても、これから逃げていたのでは、清潔さをうしなってしまう。苦痛の髭剃りということを甘受し忍耐する。それが一つの苦痛であり忍耐であるが、さらにこれは小分けできることである。まず、顎の髭をと面倒なことを我慢して剃る。さらに、場所を変えて頬の髭をと我慢する。耳横のもみあげを整えねばと、シェーバーを一旦止めて際ぞりのカッターを駆動させることを小目的にもする。口ひげもまた別のシェーバーの動きとなり別の苦痛となりうる。苦痛も苦痛甘受の忍耐も、したがって目的も小分して展開する。
 大きくまとめれば、それはそれで総括的に苦痛を感じ、総括的に忍耐することになる。生きることが面倒だとか、しんどいということであれば、それをひとつの苦痛と感受することであろう。苦界の人間界と諦念して、死神が迎えにくる(消極的な大目的)までは苦界に耐えて生きようと忍耐を決意する。その一つの苦痛にひとつの甘受、忍耐が対応しうる。さらに、定年までの五年の我慢だと意思をふるいたたせ、日々も、起床時に限定した、布団を出るという苦痛に逆らい我慢して立ち上がることに始まって、次々と新規の不快・苦痛を甘受し忍耐を重ねることになる。次々と目的を描き出し、それのための日々の苦痛を小分けして感じることで、その小分けした苦痛も、髭剃りのようにさらに小分けもできる。ひとの意識は、だいたいが、ひとつのことを意識することになり、意志もひとつのことを目的に描く。別の目的などがあっても、同時的には描けない。一つずつを対象にする。大目的も小目的もそのことを思うときは、そのひとつのみを対象にする。苦痛が耐えがたいとき、とくに時間的に長期にわたる場合は、これを小分けして、いまは、ほかの苦痛は考えず、そのひとつの苦痛のみに集中し忍耐しようと、より実行しやすく、耐えやすくすることである。途中、中間であっても、そこまでに達するのを一段落とする目標(目的という客観的な終結点ではなく、途上での努力のさしあたり目指すべき高みと設定した点)がここでは、苦痛の忍耐を頑張らせる。若干、高めの目標を立てて、無理矢理そこまで自身を引き上げていく。


たくさんの手段を介しての目的的展開

2025年07月01日 | 苦痛の価値論
4-8-1. たくさんの手段を介しての目的的展開 
 苦痛を手段・犠牲にして目的実現へと進める場合、自然的な快不快にしたがっての営為と異なって、不快・苦痛も避けず、逃げないのだから、目的実現への歩みは、格段に可能性を高める。目的実現のためには、種々の方法・手段があろうが、自分のうちの苦痛回避という自然的妨げを除去できる場合、快不快の手段のどれでもを選べることになり、一番、効率がよく目的に向かって進むことが可能になる。山頂にと登頂することが目的になる場合、麓からはたくさんの道がありうる。ときには、ヘリコプターを使うようなこともあろう。目的にむかっての諸手段は、苦痛になることでもよいのであれば、快不快の自然的方向づけに縛られず、どれでもを選べることである。目的に直進しないで、バイパスの方が自分にはよいという個人的事情も配慮できる。手元の原因となる手段から因果の連鎖で目的まで進むとしても、その連鎖は多岐にわたっている。しっかりとした展望のもと深慮遠謀をもって巧みに目的へと向かうことができる。おそらく、一歩進むごとに、展望が開けて、別の因果連鎖の方に乗り換える方が得策ということも見えてくる。
 目的とする未来は、未だ確定せず、かなりが未定である。因果必然の道程においては、そとから別の因果連鎖が交差してくる可能性ももちうる。突然の事故など、思いもよらぬ方向からの偶然の関与がありうる。そういう計算外のことも、そのたびに計算しなおして、目的のよりよい実現の方向へと修正していく。苦痛という自然的にはストップのかかる大きな壁をひとは、乗り越え、偶然の事故をも巧みに利用して、その都度より良い目的達成への道を発見して前進することである。
 山頂が目的だとすると、そこに登る道は、たくさんありうる。自分のいる麓からということでは、出発点はひとつだとしても、途中は枝分かれしていることもあろう。あるいは、麓からの道は、大道であっても、途中で行き止まりのこともある。山頂=目的まで一番効率のよい確実な道をたどることが人の場合できる。それは、目的論的な歩みをその都度修正しつつ行うからである。目的論では、目的(=山頂への到達)を設定して、そこから観念上において、自然因果を逆方向に結果=目的(=山頂)からたどって、手元の原因に到ることがまずある。そして手元の原因をしっかり手中にしてこれを手段として、そこから順次、観念的に歩んだ結果から原因への道を、逆に実在的因果的にたどる。かつ途中で一層都合のいい近道が見つかれば、修正しつつ、登頂への最善の道を進むこととなる。
 苦痛を受け入れねば進まないところでは、その苦痛を甘受し、一段落つけるところをまず目的とするだろう。点滴の苦痛を受け入れることでは、まずは、血管に薬物を注入することが目的となる。その先の病気のことは苦痛の直接の目的には描かないであろう。しかし、点滴が続く中では、これで病気はよくなるだろうと大目的を想起する。それとともに、退院して元気でまた仕事するとか、美味しい物を食べてやろうと好物の焼肉料理を目的として描くこともありうるであろう。あるいは、最終目的までの過程がたくさんある場合は、新規の段階に到ることで見えてくるものがおそらくある。はるかな目的を目指す場合、まずは最終目的、大目的を意識するが、少し歩みを進めると新規に課題となり小目的や達成目標となるものが発生もする。それらを大目的のための手段にしつつ、確実に進んでいくことである。

苦痛の手段と目的の多彩な世界

2025年06月24日 | 苦痛の価値論
4-8. 苦痛の手段と目的の多彩な世界
 動物的自然では、ことを抑制するには、苦痛を与えればよい。苦痛になることは回避するので、その方向への歩みはストップする。だが、ひとは、そこに苦痛が立ちはだかっていても、その苦痛を回避していてはその先の目的を実現することができないという場合、この苦痛と目的の価値の差引計算をして、目的の価値が大きく、苦痛を甘受しても進むべきだと判断したら、苦痛を受け入れこれを乗り越えていく。動物は、不快・苦痛を回避するが、ひとは、苦痛も受け入れることができるので、あらゆる場面において、価値ある未来を選択でき、その行動領域は格段に広くなる。
 苦痛を手段とする場合は、快を手段とするのと違い、確実に目的に向かう。快だとそこにのめり込んで目的を忘れることが生じる。子供のお使いでは、途中で道草してそれが楽しければ、目的のお使いは忘れて終わることがある。だが、苦痛は、その苦痛の手段に留まることはない。これにのめり込むこともない。自然的には回避したいことであり、できるだけ早くその苦痛は終えたいことである。苦痛の手段は、それ自身を止揚して目的へと進む。苦痛自体を少なくするためにも、急いで目的へと向かう。かりに、目的が実現できないと分かったときには、その苦痛甘受は即中止もする。手段が快の場合だと、目的が見失われても、その手段の快にのめり込み続けることであろう。確実に目的を実現すべきとき、快と苦痛のどちらの手段をも選択できるとしても、目的をはやく確実に実現する必要があるのなら、苦痛の手段をとる方がよいことになろうか。もっとも、快の方が生自体にとっては、好ましいことであり、目的が見失われることが少ないのであれば、当然、快の手段をとる。
 苦痛を手段にする場合は、生にダメージを受けつつのことで、目的が実現されなかった場合、「骨折り損のくたびれもうけ」となる。快が手段なら、目的が実現できないとしても、快の享受ができたのであり、生にとってマイナスではなく、プラスの経験ができたのであり、その限りでは、後悔することはない。しかし、苦痛を手段とする場合は、事に真剣にならざるをえない。目的が実現できず無駄な苦痛に終わらないために懸命となる。せっかくの苦痛である。どうでもいいものを目的としていたのでは、苦痛が生きない。目的自体が生に大切なことと価値判断できてのものでなくてはならない。さらに、苦痛の犠牲の反価値の量と、獲得できる目的の価値量とを差引計算して、プラスの価値の確保できること等も計算できているのでないと、愚かしい苦痛甘受、忍耐となってしまうであろう。快が手段の場合とちがって、苦痛甘受を手段とする場合、目的と手段について理性的にしっかり計算することが求められる。 
 快は、生理的生では大きな役割をもつ。しかし、精神的領域では些事となる。ひとが動かされるのは、動物的生では、食や性に見られるように快楽であるが、精神的生は快によってではなく、そこでの価値あるものの獲得に魅了されて動く。経済生活では、純粋に快楽のみのぬか喜びでは、喜べない。むしろ、その喜びは不快となる。喜び(快)ではなく、経済的価値のあるもの、金銭などが確保されるべき目的となる。しかし、不快・苦痛の方では、生理的レベルのみでなく精神的領域においても、これを軽く扱うことはできない。精神的苦痛の絶望とか悲嘆、不安は、ひとをこれの回避に向けて強く動かす。生理的な領域での苦痛が耐えがたくて自殺することは、なくはないが、少ない。だが、精神的領域の苦痛、絶望とか悲嘆が耐えがたく、自殺して生を終わることを選ぶ者は、まれではない。多くの自殺は、精神的苦痛が耐えがたくてするのである。その大きな存在としての精神的苦痛について、忍耐は、その苦痛を甘受する。並大抵の苦痛甘受ではないが、ひとは、これに耐えその苦痛のない状態へと必死になる。かつ、そのことで自身の生を鍛え、飛躍していく。絶望に耐えることで、生理的なレベルの苦痛に耐えるのとちがって、ひとは、人格に磨きをかけ大きな人間にと成長していく。絶望などの苦痛に負け、これを回避するために自暴自棄になり、人生をみじめな方向にと向けることも少なくないが、その苦痛・苦悩に耐え、これに打ち勝ち、新しい人生を構築して飛躍をもたらすのでもある。