3-8. 苦痛が、快を可能にすることがある
苦痛(不快)は、その反対の快を際立たせることがあるが、さらには、苦痛が快にと変換されることもある。苦痛があって初めて、その快の可能になる類のものがある。安心・安堵は、その快自体を直接求めることはできない。不安とか恐怖の苦痛・不快があって、それの消去において生じる快である。危険を感じる状態に不安を抱いて、その危険の除去のなるところに安心感は生じる。危険が無として定着したら、安心感も消滅する。安心・安堵の快を味わうには、それに先行して危険への不安・恐怖をもたねばならない。バンジージャンプの快など、死に直面しての危険をしっかりと味わうことがあって、そののち危険消滅の大きな安心・安堵の快感を抱く。ここでは苦痛が快を可能にする。
快感情は、心身を弛緩・伸張させ生の高揚をもたらす状態であろう。脳内にはいわゆる快楽物質のドーパミンやセロトニンなどのホルモンが分泌される。これは、食の快の場合、反対の不快・苦痛はなしでの快楽となる。例えば、甘いものを舌で感じ取り、それがのど越しで摂取を確定したとき、甘さの快感に浸ることになる。性欲や食欲の場合は、苦痛・不快なしでの快楽である。生維持・種保存を可能にする事態に快を添えるのであって、その快に関しては、不快、苦痛は、はじめにも終わりにも、無いのが普通である。
生は、おのれを支え、より良く生きるために、身の危険や苦痛から自己を保護し、より豊かで高度の営為を求めていく。そこでは、損傷とか重荷には苦痛を感じ、それからの解放には、安心とか安楽という快をいだく。食欲・性欲の快とちがい、損傷や負担への対応では、まず、苦痛・不快があり、それからの解放に快をいだく。有害なものの無だけでは、快にはならない。かりにそういう無の持続に快を抱くのだとすると、無事の体中から快感が生じて穏やかに過ごすことはできなくなろう。損傷や危険の無それ自体は、感情的に無にとどまるのが正解である。つまり、損傷等への苦痛があってそれの除去がなったところのみに、苦痛・損傷からの回復を促進する飴として快を抱くこととなり、苦痛に快が続くという形になる。安心・安堵の快は、それのみでは生じない。損傷とか危険への苦痛・不安といったものがあっての、それの解消としての安堵の快である。苦痛が快へと変換されることになる。遊びでは当然、快を味わおうとするが、意外と危険(不快)を踏まえるものがある。非日常の(本当は安全な)危険体験であり、その危険の不快が快を可能にすることがあるからであろう。
苦痛(不快)は、その反対の快を際立たせることがあるが、さらには、苦痛が快にと変換されることもある。苦痛があって初めて、その快の可能になる類のものがある。安心・安堵は、その快自体を直接求めることはできない。不安とか恐怖の苦痛・不快があって、それの消去において生じる快である。危険を感じる状態に不安を抱いて、その危険の除去のなるところに安心感は生じる。危険が無として定着したら、安心感も消滅する。安心・安堵の快を味わうには、それに先行して危険への不安・恐怖をもたねばならない。バンジージャンプの快など、死に直面しての危険をしっかりと味わうことがあって、そののち危険消滅の大きな安心・安堵の快感を抱く。ここでは苦痛が快を可能にする。
快感情は、心身を弛緩・伸張させ生の高揚をもたらす状態であろう。脳内にはいわゆる快楽物質のドーパミンやセロトニンなどのホルモンが分泌される。これは、食の快の場合、反対の不快・苦痛はなしでの快楽となる。例えば、甘いものを舌で感じ取り、それがのど越しで摂取を確定したとき、甘さの快感に浸ることになる。性欲や食欲の場合は、苦痛・不快なしでの快楽である。生維持・種保存を可能にする事態に快を添えるのであって、その快に関しては、不快、苦痛は、はじめにも終わりにも、無いのが普通である。
生は、おのれを支え、より良く生きるために、身の危険や苦痛から自己を保護し、より豊かで高度の営為を求めていく。そこでは、損傷とか重荷には苦痛を感じ、それからの解放には、安心とか安楽という快をいだく。食欲・性欲の快とちがい、損傷や負担への対応では、まず、苦痛・不快があり、それからの解放に快をいだく。有害なものの無だけでは、快にはならない。かりにそういう無の持続に快を抱くのだとすると、無事の体中から快感が生じて穏やかに過ごすことはできなくなろう。損傷や危険の無それ自体は、感情的に無にとどまるのが正解である。つまり、損傷等への苦痛があってそれの除去がなったところのみに、苦痛・損傷からの回復を促進する飴として快を抱くこととなり、苦痛に快が続くという形になる。安心・安堵の快は、それのみでは生じない。損傷とか危険への苦痛・不安といったものがあっての、それの解消としての安堵の快である。苦痛が快へと変換されることになる。遊びでは当然、快を味わおうとするが、意外と危険(不快)を踏まえるものがある。非日常の(本当は安全な)危険体験であり、その危険の不快が快を可能にすることがあるからであろう。