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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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苦痛が、快を可能にすることがある

2024年02月27日 | 苦痛の価値論
3-8. 苦痛が、快を可能にすることがある  
 苦痛(不快)は、その反対の快を際立たせることがあるが、さらには、苦痛が快にと変換されることもある。苦痛があって初めて、その快の可能になる類のものがある。安心・安堵は、その快自体を直接求めることはできない。不安とか恐怖の苦痛・不快があって、それの消去において生じる快である。危険を感じる状態に不安を抱いて、その危険の除去のなるところに安心感は生じる。危険が無として定着したら、安心感も消滅する。安心・安堵の快を味わうには、それに先行して危険への不安・恐怖をもたねばならない。バンジージャンプの快など、死に直面しての危険をしっかりと味わうことがあって、そののち危険消滅の大きな安心・安堵の快感を抱く。ここでは苦痛が快を可能にする。
 快感情は、心身を弛緩・伸張させ生の高揚をもたらす状態であろう。脳内にはいわゆる快楽物質のドーパミンやセロトニンなどのホルモンが分泌される。これは、食の快の場合、反対の不快・苦痛はなしでの快楽となる。例えば、甘いものを舌で感じ取り、それがのど越しで摂取を確定したとき、甘さの快感に浸ることになる。性欲や食欲の場合は、苦痛・不快なしでの快楽である。生維持・種保存を可能にする事態に快を添えるのであって、その快に関しては、不快、苦痛は、はじめにも終わりにも、無いのが普通である。
 生は、おのれを支え、より良く生きるために、身の危険や苦痛から自己を保護し、より豊かで高度の営為を求めていく。そこでは、損傷とか重荷には苦痛を感じ、それからの解放には、安心とか安楽という快をいだく。食欲・性欲の快とちがい、損傷や負担への対応では、まず、苦痛・不快があり、それからの解放に快をいだく。有害なものの無だけでは、快にはならない。かりにそういう無の持続に快を抱くのだとすると、無事の体中から快感が生じて穏やかに過ごすことはできなくなろう。損傷や危険の無それ自体は、感情的に無にとどまるのが正解である。つまり、損傷等への苦痛があってそれの除去がなったところのみに、苦痛・損傷からの回復を促進する飴として快を抱くこととなり、苦痛に快が続くという形になる。安心・安堵の快は、それのみでは生じない。損傷とか危険への苦痛・不安といったものがあっての、それの解消としての安堵の快である。苦痛が快へと変換されることになる。遊びでは当然、快を味わおうとするが、意外と危険(不快)を踏まえるものがある。非日常の(本当は安全な)危険体験であり、その危険の不快が快を可能にすることがあるからであろう。


苦痛に麻痺し過労死等の悲惨も引き起こす

2024年02月20日 | 苦痛の価値論
3-7-6. 苦痛に麻痺し過労死等の悲惨も引き起こす    
 ひとには大きな適応能力があり、辛苦にも、反復のたびに、よりよく適応できていく。その方面の能力自体がそのたびに向上する。以前の苦痛と同じなら次第に平気になってくる。だが、それにも当然限度がある。限度を超えて苦痛・損傷を受け入れていると、生は回復できないような悲惨な事態になっていく。木の枝が相当程度まで曲がって耐えていても、どこかで支えきれず折れるようにである。忍耐強い者ほど、疲労蓄積に耐え、その無理が巨大になってしまい、ときには過労死にまで突き進んでいくようなことになる。苦痛に、よりよく耐えて、より大きな苦痛もだんだん平気になるとしても、普通、損傷は、主観がいくら頑張ってみても無理となる限度をもっている。苦痛なら、耐ええない激痛になっても気絶して受け入れ続けうるが、そのとき損傷の方は一層破壊が進むことになり、回復できない破滅的なものとなる可能性がある。
 大きな損傷になっていても、疲労が蓄積していても、鈍感になって気づきにくくなることがある。苦痛に対して麻痺した状態にすらなる。激しい損傷では、意外に痛みはそれほどでもないことがある。強く殴打された場合など、その箇所では、痛みではなく衝撃が感じられるだけの麻痺した状態になる。痛覚もつぶされたかのような状態になる。仕事で過労状態が続くと、それに加えた苦痛・苦悶を生じても、余計に辛くなるだけということであろうか、その疲労はあまり感じなくなり困憊は麻痺状態といったものになっていく。そういう疲労への麻痺状態がさらに進めば、当然、心身は生の限度を超えて、ついには死に到る。過労死にまでなっていく。
 ひとは、強い意志をもって苦痛に耐えることができる。苦痛の忍耐では、目的となるものの手段として、目的に見合った苦痛と損傷を踏まえながら、耐えうる限界を定めつつ苦痛に対処する。かりに目的が巨大な価値をもつものなら、身体の損傷が大きくなってもこれの激痛を甘受できる。ひとの意志力は強大である。呼吸停止の競争ならば、限度を超えて耐えていく意志があっても、気絶するようなことになって限度を超えたことが明確になる。拷問では、味方を売るように、あるいは、棄教するように等と責められるが、信念のある者は、どんな激痛にも耐える。激痛に耐え、気絶するような苦痛の限度を超えた状態に耐え、命を奪われるような事態にも耐え抜くことができる。殉教者の場合、拷問の激痛は、耐えうる限度を超えていても、そのことで天国・極楽に行けるのだと確信していて、その拷問において、苦痛どころか恍惚状態で絶命するようなことがあったとかいう。

苦痛に慣れる場合、敏感になる場合  

2024年02月13日 | 苦痛の価値論
3-7-5. 苦痛に慣れる場合、敏感になる場合
 特定の苦痛について、訓練しこれに慣れて苦痛でなく平気になれるようにすることがある。正座をしなくてはならない場合、この苦痛に耐えることを重ねていくと、慣れて、これが苦痛でなくなる。苦痛が苦痛を抑止し止揚していく。慣れると腰掛けるよりも正座の方が楽になる。かつてはバスや電車の座席に正座した老人をよく見かけたものである。苦い薬なども、はじめは嘔吐するようなものでも、慣れてくると平気になる。嫌いなニンジンに我慢していたら、やがて慣れてきて、嫌いでなくなる。スポーツの練習のように能力を高めるのではなく、逆に、(特定の苦痛感覚の)能力を低くし鈍感になるのである。
 苦味や酸味も、これを味わうことを反復すると平気になってくる。意識してそういう鈍感化を目指すことはあまりなかろうが、苦痛には多くの場合慣れてくる。ジャズが不快だったものが、勤務先のバックミュージックで聞くことに忍耐させられていた場合、平気になってくる。交通騒音・セミなどの音も慣れればなんでもないものになる。欲求の場合、抑制して不充足の辛苦を反復していると、しだいに欲求が変容して無欲になることもある。性欲とか贅沢品への欲求は、個体にとって食欲とはちがい、なくても生に悪影響はないから、挑発されることなく満たす機会のない状態がつづくと、しだいに苦痛どころか欲求自体がなくなっていく。免許のない人は、車購入への欲求などもたない。刑務所では、食欲はいつまでも旺盛であるが、性欲は、挑発するものもなければ、早々に消えていくという。禁欲の忍耐では、禁酒・禁煙のように、苦痛のもととなる欲求自体を小さくしたり消滅させることがあり、そうなると(苦痛の)忍耐も無用になっていく。
 反対に、慣れず苦痛に過敏になることもある。騒音の苦痛は、気にし出したら、小さな音でも苦痛になってきて過敏になっていく。嫌いな食べ物は、重ねるたびに大きな不快になることがある。漬物の嫌いな人は、臭いがするだけでむかつくようになる。苦痛は損傷によって生じるが、その損傷が消えるよりも蓄積されるような場合、同じ損傷を受けてもより多くの損傷の蓄積になるから、より過敏に反応し苦痛を大きく感じるのは、理にあっているであろう。暴力団の嫌がらせなど、はじめは小さな苦痛であっても、それが重なるとその度に、同程度の脅しでも、より大きく苦痛を感じて音を上げてしまい、彼らに屈服してしまうようなことがある。身体の反復する痛みも、気になって、(損傷が大きくなっているのでもないのに)しばしば大きく感じるようになる。不安なども、病的になった場合、思いもしないような場面で不安感がでてくるようなことが重なると、これを大きくする。苦痛に、より過敏になるのは、機敏に対応が取れることとしては、正常な反応であり好ましいことである。が、そのことが生全体にとっての負担を大きくし苦痛感情自体が生にダメージを与えるような過敏状態になるのでは、有害で余計な苦痛となって困ったこととなる。

快不快が一つになり異なった感情を生じることもある

2024年02月06日 | 苦痛の価値論
3-7-4-1. 快不快が一つになり異なった感情を生じることもある   
 対立する感覚・感情(快不快)は、相互に影響しあって、これらをより際立たせることもあれば、相殺しあうこともある。さらに、ときには、総合されて別のものにと揚棄されることもある。温覚と冷覚は、風呂のお湯の温度でしばしば経験するように、その快不快の相互を際立たせるが、熱(温度)はひとつになるから、その点からみると、中和し相殺して一つの温度となってその温度と体温との関係で快か不快になる。しかし、冷覚温覚が同時に働く総合的な状態にした場合は、暖かくも冷たくもなく、別の感覚・感情、痛みを生じるようになると言われる。もっとも、これは、冷覚と温覚の総合というより、熱さ冷たさは、強烈になると(皮膚を損傷し)痛みになるように、冷・温の同時受容の中で強烈と錯覚して痛みとなるのではないか。
 触覚でも、快不快の混合・総合的状態になるとき、特殊な感覚・感情をもつことがある。「くすぐったさ」は、触れられて生じるが、快がまさるとしても不快の混ざったものであろう。これは、急所に感じやすい。急所が襲われて苦痛を予期(恐怖の緊張)しながら、安全と分かりその苦痛がなく緊張解除の笑いを生じて、不快を踏まえ混合した快になるのであろう。「かゆみ」も、軽い痛みと快とを総合した、痛みでもあり快でもあるといった状態になる。痛み(というか異物が触れている感覚)とこれを搔きたい(異物を取り除きたい)という衝動の一体となったもので、搔けば、衝動が満たされて、かきむしって自らの作る真性の痛みと混ざった心地よさをもたらす。 
 味覚(の感覚・感情)の場合は、おいしい・不味い(快・不快)は、混合・総合の在り方次第で、別の味わいを生じることになる。チョコレートは、甘いからおいしいのではあるが、それだけでは魅了するものにはならない。不味い苦味があってこその独特の美味しさであろう。その砂糖の甘さと、ココアの苦味の両方が微妙に総合された(隠し味的な脂肪分なども加わって)独特の味わいにチョコレートの魅力はある。苦味や酸味は、それ自体は、不快な不味いものであるが、それを甘味のなかに加えると、甘味と苦さ・酸っぱさが一体となって総合された独自のうまさをつくりだす。が、渋みではそれはない。もっとも、お茶の場合(味覚の鈍化した大人に限ってのことだが)、軽い渋みは、穏やかな苦味とともに総合されて美味さを構成する要素となる。
 人間関係は複雑怪奇で微妙なものであるが、そこでの快不快の感情も、その混合・総合状態において独特なものとなる。磁石なら引っ付くか反発するかと単純だが、人間関係では、引っ付きながら微妙に反発したりと複雑になる。「嫉妬」とか「やきもち」では、愛がありつつ、時に怒り・憎しみが生じる。愛憎の混合・総合した感情である。「義憤」は、正義心とか博愛といったものをもってのもので、怒りを主軸においた総合的感情と見てもよいであろう。「苦笑」は、快の笑いの装いをもちつつ内面では苦々しい思いになっていて快不快の両面を含む。「諦め」の感情は、喪失の悲哀感情でありつつ、喪失からの回復(執着心)を全面放棄しているような場合、ときに緊張解除に生じる笑いも含んで、さっぱりした心持になる。「充実感」は、それ相当の負担を踏まえての満足感で、身体が疲労して苦痛でありつつ精神的には満足し快適といった具合の総合的全体になる。


快・不快の相互を強く感じる場合

2024年01月30日 | 苦痛の価値論
3-7-4. 快・不快の相互を強く感じる場合     
 快不快が同時に生じる場面では、相互が反対に振舞い相殺しあうのが基本となろうが、これが継起的に生じる場合は、おそらく、多くが快不快の相互を際立たせることになる。楽な仕事の後の苦しい仕事は、苦しさを際立たせ、かつ、先の楽な仕事も、より楽だったと感じて際立たつことになろう。対立する色は、混ざって混色になれば、もとのものを相殺しあうが、そうならずに並んでいるのなら際立たせあう。
 喜び悲しみが一体的に生じると中和する(一つの事態において同時なら、つまり5千円もうけて4千円損したのなら快不快が相殺しあうだろう)が、価値の喪失の事態と獲得の事態が同時でも、別々の事柄ということになる場合は、この事態そのものに注目すれば、この同時的な快不快の相互は際立つだろう。家に子犬が産まれて喜んだとしても、親犬が同時に死んだら悲しいこととなる。その二つのことは、おそらく、その喜びと悲しみを際立たせるのではないか。
 この世は苦楽からなるが、苦が際立ち、苦界ということがある。苦楽、喜び悲しみの対立感情を同じように悲喜こもごも種々に体験した場合、快の方はすぐ消えるのに対して、苦・悲しみは、圧倒的に長く続くから、総じての苦界というレッテルは、体験的に納得できることになる。しかも、快を得るために苦労し忍耐して苦痛を甘受する。もちろん、その苦労の過程は長い。その成果を味わう快は、瞬時に終わる。苦痛が圧倒的といいたくなる。そんななかでの喜びなどの快は、希少のものとして際立つが、これも苦界、苦海を際立たせるための薬味でしかないように思えなくもない。
 庶民は、価値獲得の苦労をしても、成果(喜び)は支配階級に奪われるから、苦を多く味わうことになるのだが、おそらく支配階級の者も苦界を脱出することはできない。贅沢も慣れれば普通のこととなり、庶民には喜びのものが、贅沢できないというだけで苦痛になるから、場合によると庶民以上に苦痛を感じるかも知れない。いずれもが、この世は、苦の世界、苦界、苦海だと感じやすいことになる。苦ばかりがあれば、そうでもないのだろうが、楽・喜びが時にあるから、苦が一層際立つ。そういう苦の満ち満ちた世界で、ときに楽・快が与えられれば、泥中の蓮の花のように、これも際立つ。