3-8-3. 苦痛の持続で、自ずと快の生じることがある
生命は、損傷を受けても、それからの回復がおのずからになるように自然治癒力を備えている。苦痛も、単に、危機の警報を鳴らしその苦痛を嫌悪・回避することへの衝動をもつだけでなく、その苦痛に打ちのめされて、まともな対応ができなくならないようにと、その苦痛に過剰反応して元も子もなくすることがないようにと、これを和らげることを自身においてする。脳内がパニックになりダメージを大きくしないようにと自身を慰安する。苦痛が続けば、心身がダメージを受けるので、これを和らげ治癒するようにと脳も反応して、麻薬様の物質も分泌するようである。
苦痛の軽減が必要と思われるとき、麻薬を使用することがある。快楽を与えることで、反対の苦痛が中和されて楽になる。それに似たことを自然も行い、苦痛持続のなかで脳内に快楽物質となるホルモン類(エンドルフィンなど)を分泌することがある。マラソンでの「ランナーズハイ」と言われるものはそれになる。40キロという長距離の苦闘のなかで、心身は疲労し苦しむ状態になる。その中で、自己慰安するように、脳内麻薬が分泌されて「ハイ」の状態になり、苦しさを忘れることが可能になるようである。
激しい宗教的な修行では、恍惚状態になることが言われる。自らが作り出す苦痛・苦悩であるから、自らにその慰安も準備することになるのであろうか。悲しみに苦悶状態になるとき、泣いて涙を出すとか、誰かに訴えるようなことをすると、その苦悶が和らげられる。周囲からやさしく慰められれば、これに快をいだいて、悲しみの苦痛は和らげられる。ひとは、自身を対象化して、かわいそうな自分だと自身で自身を慰めもする。自慰である。痛み一般についても、意識することはないけれども、自慰(快の湧出)を何らかの形でしているのであろう。それが顕著になって意識できるのが、長期の苦痛で心身が困憊状態になるマラソンとか宗教的な荒行に見られる、恍惚とかハイになるのであろう。
苦痛感情は、苦痛自身を回避しようとの衝動をともなう。苦痛を感じれば、感じないための方策を必死に探して動く。苦痛は自身を回避・止揚する衝動をもつ。同時に、生は、苦痛を回避するだけでなく、反対の快という健全な、価値ある生の状態を希求する。鞭を回避しようとする消極的なことにとどまらず、価値となる快、飴を求めることを他方ではする。苦痛は、苦痛回避を、快を希求する。不安に苦しむ者は、安心・安堵を求めてやまない。不安の原因が除去されるのがまっとうな解決であるが、それができず、その不安解消の安堵のならない場合、代わりになるもの、飲酒などの麻薬でごまかそうともする。何らかの形で自身のうちで慰安がなるならそれを求める。念仏を唱えたりすれば、一時の慰安はなる。脳内自身で慰安を行うことができるなら、そうするであろう。苦痛自身が快を求め生み出していく。
生命は、損傷を受けても、それからの回復がおのずからになるように自然治癒力を備えている。苦痛も、単に、危機の警報を鳴らしその苦痛を嫌悪・回避することへの衝動をもつだけでなく、その苦痛に打ちのめされて、まともな対応ができなくならないようにと、その苦痛に過剰反応して元も子もなくすることがないようにと、これを和らげることを自身においてする。脳内がパニックになりダメージを大きくしないようにと自身を慰安する。苦痛が続けば、心身がダメージを受けるので、これを和らげ治癒するようにと脳も反応して、麻薬様の物質も分泌するようである。
苦痛の軽減が必要と思われるとき、麻薬を使用することがある。快楽を与えることで、反対の苦痛が中和されて楽になる。それに似たことを自然も行い、苦痛持続のなかで脳内に快楽物質となるホルモン類(エンドルフィンなど)を分泌することがある。マラソンでの「ランナーズハイ」と言われるものはそれになる。40キロという長距離の苦闘のなかで、心身は疲労し苦しむ状態になる。その中で、自己慰安するように、脳内麻薬が分泌されて「ハイ」の状態になり、苦しさを忘れることが可能になるようである。
激しい宗教的な修行では、恍惚状態になることが言われる。自らが作り出す苦痛・苦悩であるから、自らにその慰安も準備することになるのであろうか。悲しみに苦悶状態になるとき、泣いて涙を出すとか、誰かに訴えるようなことをすると、その苦悶が和らげられる。周囲からやさしく慰められれば、これに快をいだいて、悲しみの苦痛は和らげられる。ひとは、自身を対象化して、かわいそうな自分だと自身で自身を慰めもする。自慰である。痛み一般についても、意識することはないけれども、自慰(快の湧出)を何らかの形でしているのであろう。それが顕著になって意識できるのが、長期の苦痛で心身が困憊状態になるマラソンとか宗教的な荒行に見られる、恍惚とかハイになるのであろう。
苦痛感情は、苦痛自身を回避しようとの衝動をともなう。苦痛を感じれば、感じないための方策を必死に探して動く。苦痛は自身を回避・止揚する衝動をもつ。同時に、生は、苦痛を回避するだけでなく、反対の快という健全な、価値ある生の状態を希求する。鞭を回避しようとする消極的なことにとどまらず、価値となる快、飴を求めることを他方ではする。苦痛は、苦痛回避を、快を希求する。不安に苦しむ者は、安心・安堵を求めてやまない。不安の原因が除去されるのがまっとうな解決であるが、それができず、その不安解消の安堵のならない場合、代わりになるもの、飲酒などの麻薬でごまかそうともする。何らかの形で自身のうちで慰安がなるならそれを求める。念仏を唱えたりすれば、一時の慰安はなる。脳内自身で慰安を行うことができるなら、そうするであろう。苦痛自身が快を求め生み出していく。