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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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苦痛の持続で、自ずと快の生じることがある

2024年04月02日 | 苦痛の価値論
3-8-3. 苦痛の持続で、自ずと快の生じることがある 
 生命は、損傷を受けても、それからの回復がおのずからになるように自然治癒力を備えている。苦痛も、単に、危機の警報を鳴らしその苦痛を嫌悪・回避することへの衝動をもつだけでなく、その苦痛に打ちのめされて、まともな対応ができなくならないようにと、その苦痛に過剰反応して元も子もなくすることがないようにと、これを和らげることを自身においてする。脳内がパニックになりダメージを大きくしないようにと自身を慰安する。苦痛が続けば、心身がダメージを受けるので、これを和らげ治癒するようにと脳も反応して、麻薬様の物質も分泌するようである。
 苦痛の軽減が必要と思われるとき、麻薬を使用することがある。快楽を与えることで、反対の苦痛が中和されて楽になる。それに似たことを自然も行い、苦痛持続のなかで脳内に快楽物質となるホルモン類(エンドルフィンなど)を分泌することがある。マラソンでの「ランナーズハイ」と言われるものはそれになる。40キロという長距離の苦闘のなかで、心身は疲労し苦しむ状態になる。その中で、自己慰安するように、脳内麻薬が分泌されて「ハイ」の状態になり、苦しさを忘れることが可能になるようである。
 激しい宗教的な修行では、恍惚状態になることが言われる。自らが作り出す苦痛・苦悩であるから、自らにその慰安も準備することになるのであろうか。悲しみに苦悶状態になるとき、泣いて涙を出すとか、誰かに訴えるようなことをすると、その苦悶が和らげられる。周囲からやさしく慰められれば、これに快をいだいて、悲しみの苦痛は和らげられる。ひとは、自身を対象化して、かわいそうな自分だと自身で自身を慰めもする。自慰である。痛み一般についても、意識することはないけれども、自慰(快の湧出)を何らかの形でしているのであろう。それが顕著になって意識できるのが、長期の苦痛で心身が困憊状態になるマラソンとか宗教的な荒行に見られる、恍惚とかハイになるのであろう。
 苦痛感情は、苦痛自身を回避しようとの衝動をともなう。苦痛を感じれば、感じないための方策を必死に探して動く。苦痛は自身を回避・止揚する衝動をもつ。同時に、生は、苦痛を回避するだけでなく、反対の快という健全な、価値ある生の状態を希求する。鞭を回避しようとする消極的なことにとどまらず、価値となる快、飴を求めることを他方ではする。苦痛は、苦痛回避を、快を希求する。不安に苦しむ者は、安心・安堵を求めてやまない。不安の原因が除去されるのがまっとうな解決であるが、それができず、その不安解消の安堵のならない場合、代わりになるもの、飲酒などの麻薬でごまかそうともする。何らかの形で自身のうちで慰安がなるならそれを求める。念仏を唱えたりすれば、一時の慰安はなる。脳内自身で慰安を行うことができるなら、そうするであろう。苦痛自身が快を求め生み出していく。

笑いや、くすぐったさも不快の緊張あっての快であろう

2024年03月26日 | 苦痛の価値論
3-8-2. 笑いや、くすぐったさも不快の緊張あっての快であろう  
 笑いの快は、不快・苦痛なく、それ自体で快となるように思えなくもないが、やはりこれも不快を先行させており、その突然の無化に生じる快であろう。笑いは、緊張があってそれが突然解除された弛緩にいだく。こどもが舞台でつまずいても笑わないが、校長先生がマイクの線に躓いたら、どっと笑う。校長先生への緊張と、彼が意外にも愚かなことをしてのその緊張解除=弛緩という展開である。緊張は不快であり、その弛緩は快となり、余剰の緊張分がどっと吐き出されて笑い声となる。子供の失敗は、はじめからリラックスしているから、緊張がなく、笑いにはならない。はじめに緊張(不快)があってその緊張の解除にいだく独特の快が笑いであろう。
 緊張からその解除のリラックスへの展開は、苦痛・不快から快への展開だが、それだけでは、だが、笑いには不足する。社長が現れて緊張していて、消えての緊張の解除の安堵の快は、笑顔になるとしても、笑いにはならない。面接試験で緊張し、それが終わったときの弛緩の快もこれである。笑いは、もっと別のことがなくてはならない。それは、単に緊張を解除するのではなく、緊張させるものについて、価値の突如の下落が肝心である。校長先生の失敗を笑うのは、単に緊張を解除するだけでなく、偉い人と高く位置づけられているものが、突然、愚かしいことをして価値下落することを踏まえる。偉い人ということで緊張していたのに、愚かしいことを見せて、緊張を解くのだが、そこには、見下し、自分より愚かという意識が生じ、自分に優越感をいだきつつ、自分以下にと突き放す痛快さがあっての笑いであろう。 
 緊張解除だけで笑いを生じるのではと思われるものに、くすぐったさの快がある。これは、身体の急所が襲われそうで緊張させられて、それが無用と分かって生じる、笑いを伴う快であろう。これも単に、緊張が先行してその後安全と分かり弛緩・リラックスするというのではない。緊張と弛緩の間の独特の展開がありそうである。危険かもと緊張をさそい、危険はなさそうだと弛緩しはじめ、やはり危険で緊張が必要かもと反復して思わせるもので、緊張と弛緩の反復・アンビバレンスがあっての笑いの表現をもった快になろう。笑いは、「はっはっは」と、息を吐き出す弛緩と、これを即、止める緊張とを短周期でくり返す。くすぐる場合も、危険で緊張しそれが無用で弛緩しということを反復して、同じ呼吸をもたらす。笑いの呼吸法をとれば、心も笑むということになる。くすぐったさは、自分でしても生じない。危険という意識が生じないからであろう。まるっきり知らない他人がする場合も、くすぐったさとはならない。危険への緊張を最後まで解けないからであろう。これらに対して、親しい者がくすぐるときは、危険ではないという意識を根底にもつが、それでも、急所のことであり、まったく危険でないと断定もできないという状態になる。危険な急所であり、緊張を残しつつ、おそらく安心と思い、緊張と弛緩のアンビバレンス状態に、緊張解除を主にして快となるのであろう。
 皮膚のかゆみを搔いての快も、緊張(苦痛)を踏まえた弛緩の快であろう。これは、他人の関与なく自分だけで十分に快感を得ることができる。かゆみでは、皮膚に異物が感じられて不快・苦痛で緊張し、それを搔いて取り除きたいという衝動をいだく。不快な異物を除去したいと、その衝動を満たして搔けば、弛緩し快となる。搔けば、さらに傷ができて痛みが生じる。その搔いての痛みも、衝動を満たす中でのことで、自身が調整できる痛みであり、快の一部になっているような気分であろうか。血がにじむぐらいに搔いても、その搔く衝動を満たす快の方が大きく、ついつい血が出てきても搔きたくなる。痛くて気持ちいい状態となる。

遊びやスポーツでは、苦痛を踏まえた快が一般的である

2024年03月19日 | 苦痛の価値論
3-8-1-2. 遊びやスポーツでは、苦痛を踏まえた快が一般的である     
 遊びやスポーツでは、身体の苦痛をいだき、それからの解放を快とするものは普通に見られる。登山で急斜面や崖を登る苦痛とそれから解放されて頂上に立つ爽快な状態とか、格闘技での、相手から攻撃されて苦痛をいだきつつも、全力を尽くしての生の高揚感、その苦痛から一定の時間後必ず解放され弛緩しての気持ちよさ等である。
 老人になると、健康には食事と運動が肝要だと、運動をすすめられるが、つい億劫になる。これが、好きな飲酒だったら、やめることを勧められても屁理屈をつけてでも飲み続けようとする。快楽だからである。はじめから快であるものには、ひとも動物と同じく、これに魅かれて、積極的にこれに関わる。スポーツとかリハビリ等の運動を億劫がるのは、そのはじめが基本的に苦痛・不快だからである。だが、運動の苦痛を踏まえることで健康の快が可能となるのである。さらに、運動(苦痛を含む)をもって、錆びついた体がスムースに動くようになり生の高揚感を享受でき、運動の直後は、緊張から解かれた弛緩・伸張の快を味わうことができる。したがって、一旦運動を習慣化した者は、逆にこれをやめることが少なくなる。苦痛の運動は、長期にも直後にも健やかな快を産みだす。
 遊びとスポーツは、現実世界の模擬、虚構の世界になるものとしては同じで、その在り方は似ていることが多いが、もちろん違いがある。これを快苦をメルクマールにして区別すると、遊びは快を求め享受するものだが、スポーツには苦が必須である点があげられよう。スポーツでは身体の力を競うが、これには、その力で相手を直接攻撃して勝負をつける戦い、闘争と、ひとりで自身の身体能力の全力を出して優秀さを競う競争とに分けられようが、いずれも、苦痛・不快は必須である。前者は、現実世界の闘争の模擬戦ということになる。現実の戦争などでは、命を懸けてのもので武力をもって打撃を与えあい死闘・激痛となることだが、スポーツは、模擬戦であり、ルールをもって大けがになるようなことを防ぐことになり、苦痛は現実の闘争に比しては軽度となる。かつ、その戦いの間、生の高揚がなり、充実感をもてるし、終われば、当然、安堵し安楽を結果する。スポーツには、さらに、一人でもなりたつ競争がある。相手に腕力等で打撃を与えるのではなく、相手と仲良く並んで、走るとか高く飛ぶとか、腕力を競い合う。これは、相手からの打撃による苦痛はないが、筋肉の酷使が必須で苦痛がともなう。しかし、身体の酷使は短時間で、身体能力の全開で高揚し、かつ、即、弛緩でき安楽状態をもたらす。 
 これらのスポーツの在り方と、遊びは重なる。両者ともに、真剣で真摯な現実的営為・本業のそとの慰安、戯れの世界に属する(古くは、相撲や鬼ごっこは、戯れなどではなく真剣な神事に属するものだった)。が、現代は、スポーツを本業とする(プロの)人も多くなり、修行とでもいうような学校での真剣なクラブ活動もあって、遊びではないスポーツも多くなっている。遊びとスポーツのちがいで大きいのは、快苦の異なった位置づけであろう。スポーツとちがい、遊びは、快・楽、あるいは生の快適な高揚感などの享受が第一である。そのためにつかえるスポーツとか人間的営為の模擬的プレイ(チャンバラごっことか、ままごと遊び)をもってする。スポーツのなかで誰でもできるようなもの、止まった玉を打つゴルフなど、移動ものんびり歩くだけであり、公園でしばしば見かけるように心身の劣化した老人の遊び、楽しみでもある。遊びといえども、動く以上は苦も伴うが、苦はできるだけ小さく、食で言えば薬味程度にすませて、快・楽あるいは生の高揚感の享受を第一とするのが遊びであろう。

快のために恐怖などの苦痛を求めることがある

2024年03月12日 | 苦痛の価値論
3-8-1-1. 快のために恐怖などの苦痛を求めることがある   
 苦痛は、その消失時、快をもたらすが、日常的には、その快感を得るために苦痛をわざわざに求めることはない。苦痛の方がよほど大きいことで、苦痛を解消しての快は、些細なものでしかない。だが、遊びでは、快を得るために苦痛をことさらに求めることがある。ローラーコースターとかバンジージャンプでは、大きな恐怖・不安を感じるが、これが結構流行っている。高いお金を払って、恐怖とか不安そのものを感じることを求める者はいないだろうから、それらの苦痛を手段としてのみ得られる大きな快がそこには生じているのであろう。つまり、恐怖や不安の苦痛をもって、それをはるかに勝る快・満足がそこに得られているものと推測できる。
 子供が蛇を見つけて、これをいたぶることがある。恐怖心をいだきつつ、これを楽しんでいるように見受けられる。その場合は、恐怖心のあとに、その苦痛にまさる快楽がそこに生じるから蛇を遊び道具にするというのではなかろう。奇怪で稀なものを見つけ出して、それがどう反応するかを見たいという好奇心がかきたてられ、奇怪な魔獣は退治してやるという戦闘的な勇者となって高揚感をいだき、これをいたぶることに向かわせるのではないか。日常性に飽き飽きして何か変わったものはないかと探している中で、非日常の奇怪なものに遭遇し、これを退治し、これに勝てるというチャンスが(ひそやかに生きている平和主義者で悲運の)蛇との遭遇である。
 だが、ローラーコースターやバンジージャンプの場合は、好奇心を満たすためということはまずない。高所から飛び降りることにことさらに好奇心が働くことはなかろう。だが、まちがいなく、強烈に恐怖心・不安感が生じることで、その苦痛を十分に承知して、若干、勇気を奮い起こしてのもの、つまり恐怖・不安(苦痛)が必至ということが主要な事柄となっていての、遊びである。もちろん、恐怖自体を求めこれを楽しむということはない。それを求めたいのであれば、暴力団の事務所で挑発でもすれば、無料で恐怖は味わえるであろう。が、恐怖だけでは済まず、相当の惨事を覚悟しなくてはならない。バンジージャンプは、最後は、絶対に安全に終わるということを踏まえての恐怖体験である。恐怖の苦痛を介してのそれのなくなった無の安心・安堵の快感を求めているのであろう。その恐怖を抱く間に緊張・萎縮し、意識は身体落下の一点に集中して全開状態となり、おそらく、脳内には過度の恐怖に対応してこれに耐えうるようにと快楽物質のオキシトシンとかドーパミンあたりが分泌もされて自己慰安することも始まっている。そこでの危険の突如の消滅である。恐怖がなくなることで、その自慰の快楽物質の余剰分を享受でき、これを味わうことも加えての大弛緩の安楽の結末である。恐怖(苦痛)をもってのみ生じる安堵(快楽)の醍醐味ということになる。それがこういう危険を売りにする(安全な)遊びを求めることになっているのではないか。
 最近また、「お化け屋敷」が復活しているとかいう。これも、恐怖させて、しかし、本当は安全で安心・安堵の快をもたらして楽しませるものであろう。バンジージャンプと同様、好奇心を満たそうというものではない。どのお化けも幽霊も周知のものがでてくる。要は、恐怖させるのである。しかも、決して本当の危険・損傷はないということを大前提にしたもので、見せかけに一瞬恐怖させられ、即安堵にむかわせて、恐怖にともなう苦痛軽減の脳内分泌の快楽物質の余剰分を感じ、さらに弛緩、安堵の快を享受しようというのである。バンジージャンプとちがい、その恐怖と安堵を何回も反復し、しかも、恐怖の内容が身体の落下(死亡)一本というのとちがい、攻撃されパニックになる恐怖とか、気味の悪いものへのゾーとさせられる恐怖といった多彩な恐怖と、したがってそれぞれの安心・安堵を享受させるものとなる。

健康の快は、病い(苦痛)があっての快

2024年03月05日 | 苦痛の価値論
3-8-1. 健康の快は、病い(苦痛)があっての快  
 歯痛は、抜歯して苦痛の原因を取り除くと、その治療がうまく済めば、その痛みをなくして一安堵でき、快適となる。抜歯で無痛となって、その痛みの名残がある間、さわやかになったと快をいだくことになる。だが、それは、虫歯・抜歯の痛みがしっかりと消えるまでの短い間の小さな快である。快適な状態がもどってくると、もう快を感じることもない。虫歯(苦痛)の無い健康状態自体は、無感覚・無感情である。
 一般的に病気では、その疾患の部分が痛む。苦痛が続く。それの治療で病気(苦痛)が解消できたならば、つまり、健康を回復するなら、その病気の名残を思いつつ、健康のさわやかさの快を抱くことになる。この健康のさわやかさの快は、病気が治った当座感じるだけで、病気のことを忘れるとともに、その健やかさ、さわやかさの快も消失する。その健やかさの快をそれだけで感じることは、できなくはないだろうが、普通はしない。するとしたら、自分の過去の重病を想起したり、周囲の人の病気での苦しみを知って、健康はありがたいものだと思うところで、若干の健やかさ・さわやかさを感じることができる程度であろう。
 病気ではなく日々の健康な状態のもとでも、力を入れて筋肉を使えば苦痛であり、腕に力を入れ続けるのは、辛いことになっていく。その辛さ、苦しさから解放されるには、その筋肉使用をやめればよい。その解放には、即、楽になったと快をいだく。筋肉の緊張状態からの解放・弛緩において、無苦の快、楽を感じる。この快・楽は、筋肉を使った苦痛があって、これから解放されて筋肉が無苦になったことを感じる快・楽である。その筋肉使用の苦のことを忘れる状態になると、もうその快・楽も消失する。一般的に言って、苦しみなどの苦痛を抱いて、その後これから解放されたときには、その苦の無化に快をいだく。それは、身体の損傷、病気とそれからの健康の回復ということに限らず、一般的に苦に耐えてこれに悩んでいた場合、これから解放されれば、その苦痛の無化の解放感を快として感じる。難事に取り組んで苦しさを感じている状態で、それを仕上げてその苦しみが無くなったら、その無に快を感じる。それは、だが、その難事への苦痛の名残、若干の疲労が残っているようなときに感じる快であり、その難事由来の疲労がなくなったら、もうその解放感の快も消失する。
 こういう快は、苦痛を必須の前提にし、いわば苦痛を原因にして成るもので、その快だけを感じることはない。食や性の快の場合は、直接に快楽の器官があって、その器官を刺激するなら(食なら確実に栄養摂取がなるのど越しに、性なら、男だと受精が実現できる射精において)、直接に快楽を得ることができる。だが、歯痛も病気も、身体の筋肉の使用でも、それらにいだく快は、そういう器官をもたない。痛覚はあるが、快覚は存在しない。その快を可能にするには、まず、反対の苦痛を体験して、それの解消・無化をもたらさねばならず、そこに生じる消極的な感情としてその快を味わうこととなる。ここでは、苦痛は損傷からの回復を急かせる鞭となり、苦痛除去になる快は、その回復促進を一層進める飴となる。