3-8-7. 苦痛面のみを除去してなる快
苦痛の中にはそれ自身を慰撫するものがあり、その慰撫・慰安の側面だけを残して苦痛の部分をなくすることができれば、そこには快だけが残ることになる。遊びで、危険を思わせて恐怖させるものがあるが、恐怖のうちには自慰する快が出てくる。そこで、実は安全だったと恐怖の不快をなくすることがあれば、自慰していた快の部分だけが残ることになる。
悲しみの感情は、辛いが、そこには自身を慰めるものを伴うことがある。その辛さの部分をなくして、慰める部分だけが残せるなら、快ということになる。悲劇の鑑賞では、主人公の悲しみを追体験してこれを味わうが、普通は、その悲しみに一体化し追体験するなかで、不快面は捨象して自慰の快のみを残すようにして楽しむ。価値喪失を体験すると悲しみの感情を生じる。価値喪失して打ちひしがれておれば、周囲が慰めをする。慰められての快が生じる。誰もいなくても、自身がその慰めの主になって、自己を慰撫することができる。自身を対象化して、かわいそうな自分だと自己慰安する。自分で自分を慰撫しても、結構快となることである。そういう自己慰安をしても、大きな価値喪失をしたのなら、慰めは間に合わず、喪失の大きな苦痛の方が残る。そのとき、その価値喪失が無化したら、慰めのみが快のみが残ることになる。悲劇の鑑賞では、悲劇の主人公に感情的に一体化しているから、同情して悲しみ、涙を共にする(悲劇では、魂を浄化するカタルシスが肝要だという。かならずしも甘美な悲しみだけに魅されているのではなかろう)。だが、自身は、実際には、価値喪失はしていないのである。悲劇の主人公が恋人を失ったと嘆くとき、観客は、その嘆きに一体化して悲しく涙する。だけれども、その根拠をなす恋人の喪失、価値喪失自体はなしであれば、深刻な苦痛自体は、いだくことがなくて済む。残るのは、悲しみの甘美な涙のみ、慰安のみとなる。悲劇の中心になる感情の悲しみは不快感情であるが、観客にとっては快となる。
悲しみなどの感情は、現実でなく、空想・想像であっても、これを生じさせることができる。怒りの感情など、怒りの対象の気障りな当人が目の前にいるときは、この感情を抑えて何でもないように振舞うことが多い。だが、当人がいないところでは、思い切り、その気障りなことを思い起こして、心身を激怒の状態にすることがある。時には、ありもしないことを邪推・妄想して、これに激怒すらもできる。想像の方が、現実を踏まえての抑制、制御がなくて済むので、感情を純粋に吐露できる。悲しみも同様である。葬儀の場では、遺体を前にしていても冷静に気丈の振舞いを必要として、泣かないでいても、一人になったときは、もう目の前には現れてくれない死者とその喪失にしみじみと悲しみの感情をいだいて、涙が止まらなくなるといったことになる。悲劇の鑑賞でも同様で、主人公に一体化して想像することで、悲しみを追体験できる。そして、現実的には価値の喪失そのものはないので、甘美な涙だけを、その快だけを味わえる。
現実の中では、純粋に快、純粋に不快・苦痛ということではなく、両方の入り混じっていることも結構ある。何かを獲得して喜びとなっても、そのために失うものが他面にはあることで、そうなると悲しみもいだく。卒業はうれしいが、友達と別れることでもあるからその面からは悲しくもある。価値あるものを失って悲しみを抱くというとき、他面では、別の価値の確保がそのことでなっているということがあり、そうなると喜びもあるのである。人が死ねば、価値喪失して悲しみとなるが、長患いで見ていて辛かったのに、それから解放されてほっとするようなことがあれば、安らぎ(快)を感じるのでもある。人生は基本的に苦界・苦海であれば、苦が何事にも伴っているのが普通である。その苦の方を捨象してその方面への想像・意識をストップしておければ、快のみを残すことが可能となる。
苦痛の中にはそれ自身を慰撫するものがあり、その慰撫・慰安の側面だけを残して苦痛の部分をなくすることができれば、そこには快だけが残ることになる。遊びで、危険を思わせて恐怖させるものがあるが、恐怖のうちには自慰する快が出てくる。そこで、実は安全だったと恐怖の不快をなくすることがあれば、自慰していた快の部分だけが残ることになる。
悲しみの感情は、辛いが、そこには自身を慰めるものを伴うことがある。その辛さの部分をなくして、慰める部分だけが残せるなら、快ということになる。悲劇の鑑賞では、主人公の悲しみを追体験してこれを味わうが、普通は、その悲しみに一体化し追体験するなかで、不快面は捨象して自慰の快のみを残すようにして楽しむ。価値喪失を体験すると悲しみの感情を生じる。価値喪失して打ちひしがれておれば、周囲が慰めをする。慰められての快が生じる。誰もいなくても、自身がその慰めの主になって、自己を慰撫することができる。自身を対象化して、かわいそうな自分だと自己慰安する。自分で自分を慰撫しても、結構快となることである。そういう自己慰安をしても、大きな価値喪失をしたのなら、慰めは間に合わず、喪失の大きな苦痛の方が残る。そのとき、その価値喪失が無化したら、慰めのみが快のみが残ることになる。悲劇の鑑賞では、悲劇の主人公に感情的に一体化しているから、同情して悲しみ、涙を共にする(悲劇では、魂を浄化するカタルシスが肝要だという。かならずしも甘美な悲しみだけに魅されているのではなかろう)。だが、自身は、実際には、価値喪失はしていないのである。悲劇の主人公が恋人を失ったと嘆くとき、観客は、その嘆きに一体化して悲しく涙する。だけれども、その根拠をなす恋人の喪失、価値喪失自体はなしであれば、深刻な苦痛自体は、いだくことがなくて済む。残るのは、悲しみの甘美な涙のみ、慰安のみとなる。悲劇の中心になる感情の悲しみは不快感情であるが、観客にとっては快となる。
悲しみなどの感情は、現実でなく、空想・想像であっても、これを生じさせることができる。怒りの感情など、怒りの対象の気障りな当人が目の前にいるときは、この感情を抑えて何でもないように振舞うことが多い。だが、当人がいないところでは、思い切り、その気障りなことを思い起こして、心身を激怒の状態にすることがある。時には、ありもしないことを邪推・妄想して、これに激怒すらもできる。想像の方が、現実を踏まえての抑制、制御がなくて済むので、感情を純粋に吐露できる。悲しみも同様である。葬儀の場では、遺体を前にしていても冷静に気丈の振舞いを必要として、泣かないでいても、一人になったときは、もう目の前には現れてくれない死者とその喪失にしみじみと悲しみの感情をいだいて、涙が止まらなくなるといったことになる。悲劇の鑑賞でも同様で、主人公に一体化して想像することで、悲しみを追体験できる。そして、現実的には価値の喪失そのものはないので、甘美な涙だけを、その快だけを味わえる。
現実の中では、純粋に快、純粋に不快・苦痛ということではなく、両方の入り混じっていることも結構ある。何かを獲得して喜びとなっても、そのために失うものが他面にはあることで、そうなると悲しみもいだく。卒業はうれしいが、友達と別れることでもあるからその面からは悲しくもある。価値あるものを失って悲しみを抱くというとき、他面では、別の価値の確保がそのことでなっているということがあり、そうなると喜びもあるのである。人が死ねば、価値喪失して悲しみとなるが、長患いで見ていて辛かったのに、それから解放されてほっとするようなことがあれば、安らぎ(快)を感じるのでもある。人生は基本的に苦界・苦海であれば、苦が何事にも伴っているのが普通である。その苦の方を捨象してその方面への想像・意識をストップしておければ、快のみを残すことが可能となる。