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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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苦痛面のみを除去してなる快

2024年05月07日 | 苦痛の価値論
3-8-7. 苦痛面のみを除去してなる快 
 苦痛の中にはそれ自身を慰撫するものがあり、その慰撫・慰安の側面だけを残して苦痛の部分をなくすることができれば、そこには快だけが残ることになる。遊びで、危険を思わせて恐怖させるものがあるが、恐怖のうちには自慰する快が出てくる。そこで、実は安全だったと恐怖の不快をなくすることがあれば、自慰していた快の部分だけが残ることになる。
 悲しみの感情は、辛いが、そこには自身を慰めるものを伴うことがある。その辛さの部分をなくして、慰める部分だけが残せるなら、快ということになる。悲劇の鑑賞では、主人公の悲しみを追体験してこれを味わうが、普通は、その悲しみに一体化し追体験するなかで、不快面は捨象して自慰の快のみを残すようにして楽しむ。価値喪失を体験すると悲しみの感情を生じる。価値喪失して打ちひしがれておれば、周囲が慰めをする。慰められての快が生じる。誰もいなくても、自身がその慰めの主になって、自己を慰撫することができる。自身を対象化して、かわいそうな自分だと自己慰安する。自分で自分を慰撫しても、結構快となることである。そういう自己慰安をしても、大きな価値喪失をしたのなら、慰めは間に合わず、喪失の大きな苦痛の方が残る。そのとき、その価値喪失が無化したら、慰めのみが快のみが残ることになる。悲劇の鑑賞では、悲劇の主人公に感情的に一体化しているから、同情して悲しみ、涙を共にする(悲劇では、魂を浄化するカタルシスが肝要だという。かならずしも甘美な悲しみだけに魅されているのではなかろう)。だが、自身は、実際には、価値喪失はしていないのである。悲劇の主人公が恋人を失ったと嘆くとき、観客は、その嘆きに一体化して悲しく涙する。だけれども、その根拠をなす恋人の喪失、価値喪失自体はなしであれば、深刻な苦痛自体は、いだくことがなくて済む。残るのは、悲しみの甘美な涙のみ、慰安のみとなる。悲劇の中心になる感情の悲しみは不快感情であるが、観客にとっては快となる。 
 悲しみなどの感情は、現実でなく、空想・想像であっても、これを生じさせることができる。怒りの感情など、怒りの対象の気障りな当人が目の前にいるときは、この感情を抑えて何でもないように振舞うことが多い。だが、当人がいないところでは、思い切り、その気障りなことを思い起こして、心身を激怒の状態にすることがある。時には、ありもしないことを邪推・妄想して、これに激怒すらもできる。想像の方が、現実を踏まえての抑制、制御がなくて済むので、感情を純粋に吐露できる。悲しみも同様である。葬儀の場では、遺体を前にしていても冷静に気丈の振舞いを必要として、泣かないでいても、一人になったときは、もう目の前には現れてくれない死者とその喪失にしみじみと悲しみの感情をいだいて、涙が止まらなくなるといったことになる。悲劇の鑑賞でも同様で、主人公に一体化して想像することで、悲しみを追体験できる。そして、現実的には価値の喪失そのものはないので、甘美な涙だけを、その快だけを味わえる。
 現実の中では、純粋に快、純粋に不快・苦痛ということではなく、両方の入り混じっていることも結構ある。何かを獲得して喜びとなっても、そのために失うものが他面にはあることで、そうなると悲しみもいだく。卒業はうれしいが、友達と別れることでもあるからその面からは悲しくもある。価値あるものを失って悲しみを抱くというとき、他面では、別の価値の確保がそのことでなっているということがあり、そうなると喜びもあるのである。人が死ねば、価値喪失して悲しみとなるが、長患いで見ていて辛かったのに、それから解放されてほっとするようなことがあれば、安らぎ(快)を感じるのでもある。人生は基本的に苦界・苦海であれば、苦が何事にも伴っているのが普通である。その苦の方を捨象してその方面への想像・意識をストップしておければ、快のみを残すことが可能となる。


美の世界全般で不快は快の要素となる

2024年04月30日 | 苦痛の価値論
3-8-6-1. 美の世界全般で不快は快の要素となる  
 芸術の分野では、どんなものでも、美的な快を享受して楽しむが、不快なものを要素に含むことが多い。音楽が音の美を楽しむとき、不協和で不快の音を混ぜることで独特の美を作り出すように、他の分野においても、それぞれの美という快には、美でない不快な醜というようなものをその構成要素にしたり、薬味として使用して美的快を一層豊かなものにする。
 美は乱調にありというが、諧調、快調では、単調になり、すぐに飽いてくる。そこに、本来はそれだけでは不快な反調和のもの、乱調が加わることで、より豊かな美的世界が広がる。絵画は、写真のない時代には、それこそ写真のような、対象世界をそのままに映しこれに一致したものが、ゆがみなどの稚拙さのないものが快として感じられたことであろう。だが、近代になると、写実の調和から離れたゆがんだものとか相当にデフォルメされたものがより優れた美と見なされるようになった。写実主義のものであっても、より美しく快となるのは、写真とはちがい、見るべきところをしっかりと描きながらも、周辺は、かなりぼかして美的に手を抜いたものがより優れて美的快をもたらす。フェルメールは、現代とはちがい、まだ、肖像写真の代わりに肖像画を求めていた時代の人だが、その「レースを編む女」は、現代的美を思わせるように、中心の糸は繊細に写実的に明快にしつつ、周辺の糸はあいまいにぼかして(いってみれば不快にして)すぐれた美的調和を作り出している。
 ひとによって絵画への快不快の感受性は顕著に異なるのか、商売上手な者の絵がもてはやされるのか分からないが、ピカソなど、より優れた美を追う中で、幼稚園児の絵のような不快で稚拙なものを描いている。彼の「ゲルニカ」は戦争の悲惨さを表現したのだというが、歪んで滑稽さを感じさせる不快な表現で、ゲルニカで殺された人々を茶化しているように、私には見える。しかし、おそらく、そういう不快を多く含むなかで、優れて現代的な美的快を彼らは見出しているのであろう。 
 日本の陶器の中には、ピカソや、奇怪な建物を作った同郷のガウディたちも脱帽するような、相当にデフォルメされた奇怪なものがある。茶道具の陶器では、茶碗も建水も花器も、一般の焼き物でいえば、途中で火によって歪んだり不快に変色した失敗作とでもいうようなものに、その反調和の不快を含むものに、すぐれた美を見出す。歪で不快を感じてもよいはずのものであるが、日本人には卓越した美がそこに感じられるのである。
 日本の庭園は、茶器と似た歪みなどの不快を相当に含んだ美になっている。ゴミ一つない庭よりは、紅葉などの落ちている方を一層の美(快)とする。西洋の庭園を見ると、定規で整えたような四角や三角といった単純な調和をもったものを並べていて、樹木ですら杓子定規に円錐形などに剪定している。それを我々日本人は、単調すぎて退屈なものと感じる。その点、歪みにゆがめた松の盆栽などからはじめて大きな庭園でも単純な幾何学的な形になることは嫌う。頻繁に歩く道では石畳はヨーロッパと同じく整然と並べるが、美的なものに重きをおいた場合は、歩くと躓きそうで緊張し不快になるような並べ方をし、不快を含んでメリハリをつけ総体として卓越した美的な石の並びとする。乱調(不快)を含んだものに美を見出して楽しむのである。

苦が快の構成要素となることもある

2024年04月23日 | 苦痛の価値論
3-8-6. 苦が快の構成要素となることもある  
 苦が快になっていくとか快を結果するというのではなく、快と苦が並存しているなかで、苦が、その快を独特の快にと作り上げていくことがある。快と苦が混合・総合して全体として快を際立たせるのである。苦が主となった状態で快が少し伴っている場合は、苦痛を和らげることが中心になる。快が主となって小さな苦がかかわる場合は、その快を弱めることもあるが、ものによっては、快を独特の味わいのあるものにと変容させ、より豊かな快をもたらす。
 音楽は、文字通り、音を楽しむが、その美しさ、快さの中心には、調和した美しい音がある。音同士の高さ(周波数)の比が単純なものは、ひとの心にはその秩序を捉えやすいということであろうか、協和・調和の美しいものとなる。混ざる音の比が単純でなくなると、複雑なほど人にはその比は捉えにくいものとなり雑音となり不協和な不快な音となる。だが、美的な快の音だけで済まさず、これに若干不快な不協和の音を混ぜると、独特の美しい音(メロディー等)が形成される。協和する音の中に不協和の不快な音を加えると、協和する音の単純な快の在り方を変えて繊細で豊かな美的感情を引き起こしてくれる。
 苦が快に独特の味わいを与える代表は、食の世界である。美味は、甘さが中心になるが、単に甘さがあるだけでは、快ではあっても単調で、その快にはだんだん飽いてくる。食欲は、美味しさを、体に不足している栄養に多く感じることであるが、同じ栄養の同じ甘味の快では、すぐ満たされて快の度合いを小さくしてしまう。多様な栄養を摂取するには、多様な美味を味わうことが求められる。甘さだけでなく、他の苦味とか酸味なども、その多様性を満たすものとして、美味しさの快を豊かにしてくれる。みかんは、甘いものが好まれるが、同時にそこに酸味があっての一層の美味しさである。酸味のみでは苦痛ということになるが、それが甘味のなかに少し加わると独特の美味を作り上げる。苦味も同様である。苦味は、酸味以上に、有毒なものを感じ取ったものであろう。その苦味の不快なものが少量、甘味に添えられると、独特の美味しさをもたらす。チョコレートはその代表である。カカオのみだと当然苦いだけで美味しくはないが、砂糖にカカオが加わると独特の美味になる。
 発酵食品は、不快な臭いのするものが少なくないが、これも、慣れてくると、蓼食う虫も好き好きで、美味の食感を豊かにするものとなる。臭いは、不快でも、持続性がなく、すぐに消えてしまうが、おいしいものであれば、その不快さは消えるのみか、美味の薬味のような感じで、独自的なその美味を構成する部分となる。栄養の点では優等生の納豆は、それ自体は美味でも良い香りでもないが、これもおいしいご飯の上にのせて食べると美味の中に包摂されるものとなる。食道楽の北大路魯山人は、納豆茶漬け(飯)を美味として薦めている。

難行苦行の結果としての快

2024年04月16日 | 苦痛の価値論
3-8-5. 難行苦行の結果としての快   
 苦痛の行為を受け入れることで、その結果として、快の獲得できる場合がある。苦行では、そのこと自体において、脳内に苦痛を軽減するように自慰する脳内麻薬が分泌されて快となることがあるが、それではなく、苦は苦としてありつつ、苦の成果の方面から大きな価値と快が可能になるという場合である。最も卑近なものとしては、日々の労働がこれになろう。苦しい労働を受け入れ、苦しさを耐えることを通して、その結果として、かならず、その成果がなり、価値あるもの・快が実現できる。農作物の収穫は楽しい作業であろう。それは直接的には苦労だが、その労苦の一歩一歩は、穀物などの確実な一段ずつの獲得であり、享受となり、快となる。苦自体が快を産出するのである。その労苦の過程自体は、苦痛であることにかわりはないが、その実った穀物の収得は快であり、その享受も想定できれば、さらに快である。労苦自体も充実感という快をいだく。
 宗教的な修行も、未来の結果に悟りとか天国・極楽を想定でき、実際のその大安楽の世界自体は死ななければ体験できないとしても、この世のその修行自体において、その極楽などを想像するならば快となる。修行中の者は、しばしばその成果となるはずの極楽行を夜、夢に見て歓喜した。その修行そのものを重ねるほどに、そういう世界が確実になるのだと思えば、はげみとなり充実感を抱ける。苦があればあるほど、確実に未来に大安楽の世界が得られるのだ、一歩一歩それに近づくのだと、精神は快をさきどりできることであろう。苦行をしていると、脳内に快楽物質が分泌されることがあるから、その恍惚感が出てくるであろうが、それとは別に、本来的な、求める極楽の快が苦行自体のもとに充実感等として感じられることになろう。ひたすらに念仏を唱え、来世の確実な極楽行をその行が可能にしてくれると思えば、一声ごとに一歩一歩極楽行が確かになっていると感じられて、喜びとなり快となることである。さらには、その念仏に一体化しておれば、恍惚とした状態になっていくから、その恍惚の快も伴うことである。
 日本にキリスト教が入ってきて弾圧された時の殉教者は、磔刑になるとき、恍惚とした表情を見せていたと聞く。見せしめのつもりで公開していたのに、その様子に、非信者も、信じることを誘われたという。苦痛において、脳が自己慰安の快楽物質を分泌して恍惚状態になったこともあろうが、おそらくそれ以上に、天国が近いこと、「主の御元に」近づけていることを思って、すぐ先に天国が見えて、これに至福を感じえていたのであろう。まだ天国に行っているわけではないが、その苦痛が刑死が確実にそれをもたらすと確信できれば、その苦痛は苦痛であるほどに、天国の確実さを証するように思えて、その快に浸りえたのであろう(その天国も主も妄想でしかなかったとしても、その至福・恍惚感自体は本物でありえた)。
 苦痛・苦労を重ねることで快の成果を得るとき、ものによっては、その一歩一歩が苦痛の必要性を減少させていき、それが同時に快をより多くしていくようなものもあろう。この場合は、苦痛が快を産むのであるが、苦の先に快が予期できるというのではなく、苦自体の減少していく歩みが、どんどんと快を大きくしていくことになる。部屋の片づけは、はじめは大変で、なかなかすっきりしないが、苦を重ねていくほどに苦は小さくなり、快適さがだんだん大きくなる。怪我とか神経の痛みの治療などはじめは苦痛が大きかったとしても、日に日に治療効果があがって楽になっていき、最後は、苦痛は極小になり、快は最大になろう。

苦痛を快とするマゾヒスト

2024年04月09日 | 苦痛の価値論
3-8-4. 苦痛を快とするマゾヒスト     
 マゾヒストは、性的快楽の手段として苦痛を求めると言われる。普通、SM(サド・マゾ)趣味で言われるのは、苦痛をもって快一般を求めるのではなく、性的快楽に限定したものである。夜の世界にはSMクラブ(性的被虐・加虐を楽しむ性風俗店)があるというが、まさか、弁慶の泣き所を殴打してみたり、無色の入れ墨を重ね彫りして激痛を与えあって苦痛自体を楽しんでいるのではなかろう。マゾヒストは、苦痛を介して性的な快楽を求める特殊な快楽主義者になる(心理学方面では、これを性的なものに限定せず、自傷・自殺など人の行為全般における被虐的性向を問題とする。親から虐待され、その苦の代償として愛=快が得られるといった、幼児の被虐による快の体験の固着等を分析する。が、ここでは、世間で一般に喧伝されているもの、苦痛を通して性的快楽を見出すことに限定しておきたい)。
 ひとになる前は、オスはメス争奪の死闘、メスはその余波のもと乱暴な扱いといった興奮を踏まえての性的快楽だったであろう。そういう先祖がえりをしているのであろうか。原始時代には、男でも女でも、襲ったりあらがい抵抗し性的興奮状態に入ることがしばしばあったであろう。略奪婚という言葉が残っているが、女性は乱暴に扱われることが多かったようである。男子も村外のものとの結婚では、乱暴なことを村の若者からされるのは普通だった。穏やかなものであっても、好き合っての結婚など稀で、遠方との縁組では結婚の日まで相手の顔を見たこともなかった。男子間のレイプが最近言われるが、江戸期など、若道もごく一般的であった。もちろん、される若者は嫌だったにちがいない。男子はいくら抵抗していても射精したら快楽をいだいてしまう。男子のこの屈辱の射精と同じように女性でもそうなる場合があるのかも知れない。そうだとすると、苦痛の興奮状態の中でそれが快にと変わるのである。
 マゾ・サドの演技というと、前者は鞭うたれる奴隷に、後者は残虐な支配者に扮することが目に浮かぶ。そういう関係において両者に性的に快感が生じるようである。奴隷となってすべてを放棄した状態で、絶対的服従・依存のもとに安らぎ・歓びを感じ、他方は、支配者の優越を、むち打ち懲らしめることで感じることができて、相互に満足がいくのであろう。あたかもこのマゾであるかのように、おぞましい虐待を受け続けた幼い子供は、その親が逮捕されるとき、虐待されていたにも関わらず、これをかばうという。悪いのは自分で、罰せられて当然だったのだと。受苦をもって、親に捨てられることを防ぎ、愛をもらえるといった機制になっているのだと言われる。それが大人になってのマゾにつながるのだとすると、哀れを誘われる話である。
 サド、加虐性愛の方は、苦痛を加えることに、快をいだく。性愛に限らず、これは、よくあることである。攻撃欲、支配欲の充足の快だろう。かつては、捕虜を残虐に殺して楽しむような王たちがいた。いまでも、こどもは無邪気に蛇に石を投げつけて興奮して楽しむ。自身が優越感をもてることで、支配征服する楽しみであろう。加虐を多分に含む支配は、人類の根本の営為である。サドは、そういうことでは、行きすぎではあるが、あって普通のこととして、マゾと違って理解しやすい。ただし、相手への暴力が性的快楽を呼び起こすサドの肝心なところは、行きすぎだけでは片付かない。異性獲得時の暴力あたりが始原になるのであろうか。