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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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動物的自然における苦痛甘受は、苦痛を凌駕する快や衝動が促す

2024年07月02日 | 苦痛の価値論
4-1-1. 動物的自然における苦痛甘受は、苦痛を凌駕する快や衝動が促す
 自然的には、動物も人も快を求め、苦痛(不快)を回避する。だが、その自然において、快を得るには苦痛の引き受けが不可避というような場合、不快・苦痛・損傷が小さく、快がより大きいならば、その快を得るために、苦痛を選択するときがある。蜜蜂の攻撃を受け入れ苦痛を我慢しつつ、蜂蜜をとる熊のようにである。この場合、苦痛を受け入れるのは、そのことで大きな快・価値あるものが獲得できるからである。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というが、危険を冒し、苦痛を回避せず逃げず受け止めることがないと、快など価値あるものは得難い。自然の中では、「棚から牡丹餅」という僥倖はまれで、確実に食などの快を得るには、苦痛となる障害・妨害から逃げずこれに挑戦しなくてはならない。
 苦痛は、損傷を知らせるもので、その損傷と苦痛を避けようとするのは自然の本源的な反応である。苦痛は、これを回避する反応をもって損傷を回避し生の保護を結果する。この苦痛を避けず逆に受け入れるという苦痛甘受は、それ自体は、直接的には、生の保護を否定することで損傷をもたらす営為となる。だが、その苦痛と損傷を受け入れることがある。それによって一層大きな価値あるものが確保できる場合である。快を踏まえての苦痛の甘受、動物的な忍耐は、それなりに差引計算して、より価値あるものを選択しているのである。熊は、蜂蜜享受においては、蜂に刺される苦痛より、大きな快・価値を見いだしているのであろう。
 動物の苦痛甘受は、ひとの、未来の目的の手段としての苦痛甘受とは別である。動物の場合、あくまでも自然の快不快のもとでの展開である。つまり、苦痛甘受を選ぶのは、快と不快(苦痛)の差引計算でそうするだけのことである。大きな快楽を前にして、それには途中で若干の苦痛を受け入れなくてはならないとか、大きな苦痛を回避するには、小さな苦痛を受け入れることが必要ということで、その苦痛を甘受する。あるいは、大きな欲求・衝動の前では、少々の苦痛の甘受は必須となれば、苦痛に忍耐することであろう。自然感性のもとでの差し引き計算をして、よりましな方を選択するということで時に苦痛を受け入れるのである。
 ひとも自然的日常的には快不快で動く。より快適なものを求め、苦痛・不快を避けるようにと動く。ただし、快は、感性的レベルで人をひきつけ魅するものであるが、精神的レベルの場合は、快は些事で、ひきつける度合いは小さい。精神的レベルの場合は、苦痛の方は感性のそれと同様に、大きな回避への力をもつ。ひとが動物と同じように快不快で動く場合でも、精神的レベルの苦痛(例えば、絶望)が絡んでくると動物とは異なった展開となる。おいしいものがあると、犬や猫は、即これを食べるだろうが、人は、おいしいものがあっても、他人の者だと分かれば盗むという犯罪への精神的苦痛が生じて、これを抑止することになる。

反価値の苦痛だが、価値創造に資することもある

2024年06月25日 | 苦痛の価値論
4. 苦痛の価値論Ⅱ-価値創造のための手段価値-
4-1. 反価値の苦痛だが、価値創造に資することもある  
 快は、ひとに好ましいもの・価値であり、苦痛は、これを避けたいもので反価値である。仕事をして価値あるものを創造しているとき、疲労などで苦痛になると、それを中止したくなる。苦痛は、価値創造を妨げる反価値でもある。だが、この苦痛から逃げずこれを甘受することもある。それは、一つには、その苦痛を回避せず甘受することで確保できる快が大きいとか、そこに生じている欲求・衝動が苦痛よりも強くなっているようなときである。これは動物もすることで、熊が蜂の攻撃の苦痛を忍んで蜂蜜を獲得するような場合である。ひとでは、さらに、そこに快が想定されるようなことがなくても、未来に向かって価値ある目的を見出して、その目的実現の手段として、苦痛から逃げず挑戦することが必要であれば、苦痛を甘受する。苦痛を踏み台にして、高い価値ある目的を達成する。苦痛は、ここでは、価値を創造する不可避の手段になっているということができる。
 苦痛は、生にとってマイナスのことがらであり反価値である。欲求にとっては、排除したいもの、反欲求となるものである。その苦痛という反価値・マイナスのものを、あえて受け入れるのは、そのことをもって、総体としては、より大きな価値・プラスが可能になるということによってである。蜂の巣を前にしての熊の苦痛甘受では、小さなマイナス価値の蜂に刺されての痛みに比べて、蜂蜜という大きな快・価値あるものの獲得がなるのである。快不快の総計において、プラスの価値が獲得できるということで、熊は苦痛を甘受する。
 ひとが苦痛を受け入れるのは、そういう自然的な快不快の差引で総じてプラスになるからということのみでなく、現にあるのは、苦痛のみ、マイナスのみという場合も、その甘受をする。感性的現在には見出すことのできない未来に、目的をえがき、その目的(価値)の獲得に現在の苦痛甘受が必須とみなしてそうする。ひとのばあいは、動物とちがい、快はなくても、未来に、価値獲得の目的を描きつつ、その未だない未来のために現在の苦痛を受け入れる。因果連鎖のはるか先の価値ある結果のために、これを目的に描いて、直近の手段となる苦労・苦痛を引き受ける。精神世界では、快はあっても些事であり、目指す目的は快不快を超越した道徳的価値の善行為であったり、政治目的の正義の実現であったりする。その高い目的実現は快不快を超越した世界であるが、そのために手段として苦労・苦痛を引き受けていく。快は、目的にもそれへの手段のうちにもない場合でも、ひとは、精神的価値の実現のために苦痛を回避せず甘受し、忍耐しつつこれを引き受ける。苦痛は、価値創造の手段価値となる。
 田に水を引くために苦労して水路をつくるようなことがある。その苦痛甘受が描く目的は快ではない。水路を作ることは、水田を作る一環としての一部の目的であり、さらに水を田に引くのは、稲を育てる苦労を引き受けるためである。最後には実りがあるとしても、これも、快になることかどうかは分からない。実りを金銭にするとしても、それは、快を得るためではなく、税金を払うためであったり自宅の改造のために利用するのかも知れない。苦痛は価値あるものをもたらす手段ではあるが、ひとは、かならずしも快に魅されて苦痛を引き受けるのではない。

苦痛の価値論Ⅱ-価値創造のための手段価値-

2024年05月24日 | 苦痛の価値論
4. 苦痛の価値論Ⅱ-価値創造のための手段価値-

(以下 考察中 六月下旬(≒6.25) 再開予定)

(ここの「苦痛の価値論」は、もう一つの小生のHP【そろそろ逝くべき近藤良樹の戯れ言】の『苦痛の価値論』にまとめています(https://hiroshimakondo.blogspot.com/p/blog-page_19.html))

地獄が極楽を求め作り出す

2024年05月21日 | 苦痛の価値論
3-8-8. 地獄が極楽を求め作り出す  
 苦痛・苦労は、安らぎを、快を求める。この世は、苦しいもの、苦界だというが、これが苦でなかったら、はたして天国とか極楽を求めたであろうか。苦でないのなら、逃げ出したくはならず、穏やかな日々を安穏に暮らして終わるだろう。現代は、昔と比較すると恵まれていて苦が少ないから、極楽を求めるひとはあまりいない。中世、易行の念仏を説いたら、これが庶民に爆発的に広まった。藁にしがみついてでもこの苦界を逃れたいという一心であったろう。この現世という地獄を厭い極楽をと希求した。苦痛こそが、極楽・天国の生みの親であった。安堵・安楽はそれだけでは成立しない。恐怖とか苦悩などの苦痛があってこそ感じられるものである。江戸期の白隠は、「南無地獄大菩薩」と言った。極楽の阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏ではあるが、地獄もありがたいものなのだと。苦痛、苦界・地獄は、ひとを鍛え、極楽の生みの親ともなるのである。源信の『往生要集』は、極楽への往生を、たくさんの書誌類をふまえて執拗に語ってくれているが、まずは、極楽どころか、往生できない地獄の様々の悲惨をしっかりと説く。地獄の苦を描きつつ、かなたに極楽を強く希求する。地獄が極楽への入り口となる。キリスト教の八福も、不幸に悲しむ人たちは幸いだ、天国はかれらのものだと、苦こそが天国の幸せを可能にすると説く。
 飛行機が無事着陸してありがたいと安堵の快感を抱くのは、途中で乱高下して不安を抱かされたときに限定される。不快が快を作り出す。登山は、頂上に立つことを目的とし快とするが、ヘリコプターで頂上に着いたのでは、物足りないであろう。苦労し汗して登るという苦行のようなものがあっての、頂上に立つ喜びである。健康は、快適であるが、その快感を抱けるのは、ふつう、病気の苦痛があってこれから解放されたときである。ずっと元気な人は、健康の快感などもたない。地獄の病いが、それからの解放時に、快を感じさせ、健康の極楽を作り出すのである。
 ではあるが、個と種のための根本欲求、食欲・性欲は、快を求めるのみで、そこでは不快は無縁である。食の快は、不快なしで、のど越しに快楽を得るのみである(美味しくない不快なものはあるが、美味に必要なものではない)。性の快も、男子なら射精があれば、快なのであって、苦痛の先行はない。苦痛が快をつくることは、ここにはない。だが、苦界においては、ここでも苦を先行させての快になることが根源的事態として存在する。個体維持を不可能にする飢餓を、動物も人も知っている。身近には、空腹の苦痛が存在する。その食欲の不充足の強い苦痛をいだいた者は、これが満たされての快を強く抱くことになる。飢餓状態に置かれた者たちは、その苦痛を回避できるようにと可能な限りの手を尽くしたはずである。その苦痛回避の衝動は強く、恵まれているときには快ではなかったものを食べても、おそらく快を抱いたことであろう。 
 性の快楽の方は、どこにも苦痛を先行させるものはないように見える。射精の快の反対の苦痛は、そういう感覚自体が、ない。感じようがない。しかも、しばしば苦労がいる食の快とちがって、性の快楽を得ることはごく簡単である。ギリシャは犬儒学派のディオゲネスが言っている。性の快楽は、自分の手だけで、ただで間に合う、食の快楽も自分の喉をさすっただけで得られるのなら、どんなにいいことかと。苦痛など、そこにはない。しかしながら、ひとでも動物でも、異性との間でのそれは、大変である。動物ではメスを得るために、オスは死闘を演じなくてはならない。ひとでは、その死闘は、少なくて済むが、異性の獲得は、社会生活の基礎を担う家族の土台となることで、若者は人生をかけることが多くなる。青春の苦悩というと、少なくないものが、異性問題、恋愛、結婚をあげるのではないか。生理的にも、若者は、発情したからといっても、ディオゲネスのように無暗みにとはいかず抑制し我慢することであり、苦痛を踏まえていることもある。とすれば、やはり、ここでもしばしば苦悩・苦痛が先だってあるということになろう。所詮、人間は、苦界の住人なのである。

苦痛の最小限で快を享受する場合  

2024年05月14日 | 苦痛の価値論
3-8-7-1. 苦痛の最小限で快を享受する場合
 苦痛が快に混じるといっても、快の中に混ざって独特の快にするとか、快を含む苦痛の中で苦痛を消して快を残すというようなものでなく、快がだんだんと大きくもたらされるなかで、限度を超えると苦痛が生じるようなものがあり、その苦痛の出て来はじめ、苦痛の最小限が一番の快をもたらすというようなことがある。寒中に、焚火にあたると、近づくほどに快が増す。だが、近づきすぎると火傷になりそうで、苦痛が生じそうなぎりぎりのところが一番の快となる。最近、「痛(いた)気持ちいい」という言葉を時々耳にする。老人向けにストレッチを教えるTV番組でのことである。筋肉を伸ばして気持ちいい状態にするのだが、その一番よく効く状態は、快であることを若干超えて痛みを生じるようなところをもってすることである。
 苦痛が圧倒していて、だんだんこれが小さくなるとともに快が感じられて、苦痛の最小限が一番の快となるようなものもある。身体の損傷からの回復時、苦痛が残り続けるだろうが、それが回復するほどに苦痛は小さくなる。苦痛をもって損傷や病いを自覚し、苦痛が小さくなることをもって回復・治癒を感じ取る。苦痛が小さくなって最小限になるところは、治癒の快が一番大きく感じられるところであろう。回復しきったら、もう快も消える。小さくて気にならない苦痛が少し残っているぐらいで一番、健康のありがたさを感じることになるのではないか。苦痛の最小限が一番の快をもたらす。その痛みは、健やかな爽やかな痛みと感じられることである。
 食のわさびは、鼻に苦痛となるが、それが微量であれば、他の不快を消して、快を残す。生臭くて不快な刺身は、栄養があることだから、できれば食べたほうがよい。その生臭さの苦痛を、わさびは、消す。結果、その小さな苦痛が魚肉の快を感じさせてくれる。紅蓼は、ピリリと辛いもので、食べたいものではなく、苦痛をもたらすが、やはり刺身に添える。これも、生臭さを抑えるのであろう。辛さの刺激が口内を若干麻痺気味にして生の不快な魚肉を気にせず食べさせてくれる。わさびも紅蓼も、それ自体は苦痛をもたらすものであり、最小限添えるだけである(最近の魚肉の処理技術は進んでいて、生魚臭さを感じさせることは少ないのであろう、味覚等感覚に敏感な子供でも生で食べる。ではあるが、現在でも、刺身には、わさびと紅蓼を添えるから、生魚は根本的には生臭いものなのであろう)。
 生のものは、やがて腐る。これも、ものによっては快にできる。腐敗と発酵は同じ事柄であろうが、要は、それが人類に有害なものを含むかどうかである。ハイエナとかコンドルは、死肉の腐敗したものが平気のようで、かれらには、それは発酵肉である。臭いは、発酵=腐敗では、ほとんどが不快なものであろう。これもできれば少ないものが優先されるが、有害かどうかが一番問題であり、人体に有害度の一番小さいものが食品として残され、それを発酵の美味として楽しむ。アルコール発酵では、どの発酵にも、メチルが含まれるようだが、その分量・有害度ができるだけ少なく、口に美味のものが最近の酒であろう。蒸留酒は、発生したメチルを除去しているが、日本酒とか葡萄酒などの醸造酒は、メチルなど不純成分をそのままにしている。有毒等の不純不快成分を少し含んでいるので、熟成させなくても飲み心地がよく、新酒とか何とかヌーボーなどは、慣れた人には独特の美味になるようである。が、悪酔いする。