5-2-7-2. 節制の禁欲は、無欲になって無用となる
過剰な欲(貪欲)を抑制してその禁欲を貫けることは、節制のさしあたりの成功となる。だが、生起した欲を抑え、禁欲の状態を続けているだけでは、なお、節制の完成とはいいにくい。
喫煙を禁じて何日も禁煙している場合、禁煙に成功しているのであるが、その状態を目的達成とは見なさない。それの完成は、禁煙という禁欲自体を卒業することにある。禁煙中は、まだ喫煙への欲求をもっている。禁煙の成功は、終点は、もはや欲しいと思わなくなることである。つまり、欲求を撲滅・無化した無欲になることが必要である。
食や性の節制では、禁欲は、過剰な逸脱した部分を抑制・禁止する。麻薬とちがい欲求自体は消滅させるわけにはいかない。適正な欲求にととどめるのが節制・禁欲である。その禁欲の「欲」は、過度の欲求・貪欲になる部分である。「欲な」「欲張り」となる「欲」を禁じるのであり、その部分が消滅すれば「無欲」となり、禁欲自体が無用となる。
もちろん、その食欲のそとに別に貪欲の部分があるわけではない。食や性の欲求が過度になったり逸脱するのは、その欲求の姿勢自体が貪欲だからである。その禁欲・節制の無用となる理想状態は、その欲求のはじめからの姿勢が「欲」でない無欲・小欲になっているものであろう。節制に心がけるものは、食べる前から無欲で、粗食を選び、食べ残しの出ない程度の量を準備する。性的な無欲は、はじめから夫婦の間以外への逸脱はなしであり(夫婦間では貪欲で円満)、根本の姿勢において不倫願望などなしの無欲清明の状態を保ったものであろう。
5-2-7-1. つらい禁欲が、やがて快適な欲求になることもある
勉強は、はじめは、遊びを禁じテレビを見ることを禁じてと、禁欲を意識することが多かろう。あるいは、仕事は、休みたいのを抑制し楽しみを禁じての難行苦行である。しかし、これに耐えているとだんだん苦痛は減少し慣れてきて、苦ではなくなる。遊びの禁止は、苦でなくなり、遊ばないこと(勉強や仕事)が楽しくなって、これが欲求にとなりかわる。禁欲的な営みが欲求にと変じてくる。
喫煙の禁欲、禁煙は、はじめはつらくイライラして不快となる。だが、慣れるとやがて禁煙が平気になる。禁煙すら忘れるぐらいになると、喫煙が、ひとの煙が不快になってくる。無煙(禁煙)状態を快適とし欲求することになる。食でも、禁欲がやがて欲求になることがある。紅茶に砂糖を禁じる禁欲がある。これに慣れて来ると、砂糖を入れると紅茶自体の味わいが壊れるので、甘味に余計なものを感じることになる。つまり、無糖自体を欲するものとなる。
一般的に、貪欲の禁止を続けていると、その禁止自体に慣れ平気になってくる。その貪欲の無、無欲が快適で清清しければ、やがて、これを求めるようにもなる。食の贅沢という貪欲を禁じて粗食にした場合、はじめはおそらく不満であろうが、生にとって無理なことではないから、しだいにこれには慣れてくる。粗食が普通のことになると、その方が健康で爽やかということで、これを欲することになりうる。
5-2-7. 禁欲によって、欲求は、高まったり消失したり、あるいは小欲化する
生に必須のものは、その欠乏を無視して禁欲した場合、必須なのであれば、抑えられたままにはならない。食の空腹感のように、当然、より大きく迫ってくる欲求になる。睡眠や呼吸は、必須のものだが、普段は、即充足されて欲求にすらならない。それを禁じることで欲求として自覚され、禁じたままだと強烈な欲求となって、充足へとひとを駆り立てることである。
欲求のなかには、生にとってかならずしもなくてもよいものもある。嗜好品の酒やたばこは無くても生に悪い影響はない。この欲求は、長い間禁欲を続けていると、だんだんと欲求を小さくしてやがて欲求自体が無化してしまう。性欲も、個体の生自体にはなくてもよいことで、挑発がなければ、やがて意識上からは消えていく。だが、これは、人類には必要なものであって、久米仙人のように、長期間消えていても、刺激・挑発があれば、たちまちによみがえる。
食の禁欲の場合、必須の欲求であるから、食欲自体を無くすることはできない。が、その貪欲の部分は、禁欲・節制を続けていると、なくてよい部分のこと、やがて消失して無欲化する。それに慣れると、貪欲の無い、無欲な適正な食欲が持続可能となる。
5-2-6-3. 貪欲は、人間的知的精神のリードで生じていることが多い
「英雄、色を好む」というが、はたして実子がいたかというような英雄の中には、性欲自体は小さなものもいたことであろう(秀吉を思い浮かべるひとがあるかも知れない)。それでも彼ら英雄・独裁者は、遠慮はいらないから、ほかに楽しみがなければ、性欲は小さくても好色ではありえた。それを増長させたのは、その特権的な社会的地位である。時の性的規範を独裁者は気にしなくてもよかった。性の場合、食と異なり、ふつうには、強く社会的制約が働き、規範からの逸脱は起こりにくい。仮に精力絶倫でも、性欲自体は夫婦間で、あるいは自分で100%充足可能なことでもある。要は、社会規範を守る気持ちを維持するのかどうかという心構えの問題である。動物的感性が貪欲なのではない。性的逸脱を起こす元凶は、自制から身勝手へと舵を切る人間的精神の貪欲である(昨今の日本のマスコミは、英雄などではなく、読者に身近で関心を引ける、自制心発育不全の驕児の性的逸脱を話題にすることが多い。「(身勝手の)恥知らず、色を好む」である)。
食の贅沢という貪欲も、知的精神的な方面での貪欲というべきであろう。動物的感性・食欲自体は、遠方の珍味を取り寄せて食べたいとは思わない。あるいは、高級ホテルのレストランで焼肉料理が食べたいというのは、味覚がこれを求めてのことではなかろう。味覚は、下町の焼肉店の方を選ぶかも知れない。贅沢の貪欲で無欲化をすべきなのは、食欲ではなく人間的精神的な貪欲の方になるであろう。
5-2-6-2. 節制にかかわる無欲・小欲
無欲は、欲求がゼロになったものとしては、ひとつには、欲求が充足されている満足状態があろう。呼吸や睡眠は、日頃は常々満たされていて無欲状態である。食でも常に満たされているものではこれがいえるであろう。この無欲は、不充足状態になると、欲求に、しばしば貪欲になる。この、欲求の働くことは無用という無欲ではなく、欲求自体が根絶されての無欲もある。禁煙では、吸いたいという欲求は、しばらくは持続するが、日がたつとともに小さくなり、やがて、喫煙欲求そのものが根絶されて無欲化し、吸いたいと思わなくなる。覚醒剤や大麻など味わったことがなければ、あるいは、その存在を知らなければ、当然、それへの欲求は生じず、これも無欲にとどまる。
食の節制でいう無欲の中心になるのは、これらではない。欲求自体は旺盛だが、度をはずすことがなく、控え目で、貪欲の「欲」がゼロ(「無」)になった慎みのある欲求を指す。これは、ひとつには、量的な過食の貪欲と、これをうまく抑制できている無欲がいえる。他方、贅沢な浪費というべき珍味などを欲する貪欲があり、その反対のものとして、質素に粗食に甘んじる無欲があるといえようか。
食がもともとから小さい場合は、過食することにはならないから、その点では、節制は無用なひととなる。しかし、高級なもの贅沢な食を求める者の場合は、少食で量としては小欲であっても、食の快楽のための大欲をもつ。口が奢っていてその面では貪り、欲張りであり、小欲・無欲とは逆で、貪欲ということになろう。