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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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節制は、当人の本気度次第である

2016年05月27日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-3-1-1. 節制は、当人の本気度次第である
 節制は、ごく簡単で、要は、やる気になるのかどうか、本気になるのかどうかである。節食を決意した者は、日々これを何よりも優先し、これをどこまでも持続させる気構えを持ち続けねばならない。おのれ(の貪欲)に手加減することをやめ、真剣になり、英知を傾けて、戦略・戦術をしっかりとねり、こころの底からことに対処する姿勢をもち続ける必要がある。その意志を堅くもって、障害や誘惑にふらつかず、辛抱して諦めず、頑なに初志を貫くことである。

5-3-1-2. 簡単な節制が、なぜ簡単に出来ないのか
 節制できないのは、自身の自由にあまえ切っているからである(自由のない刑務所や病院では皆節制できている)。感性の求めるがままの享受をやめ、己の理性的尊厳をとりもどして、適正な制限、節制へと自身を向けていくことが求められる。過度の快楽享受への甘い態度を改め、厳格に自制を心がけることである。「自分は水を飲んでも太る」というが、間違いなく過食しているのである。好き勝手・わがままの自由を卒業し、自律・自制の自由に自身を高める必要がある。


節制は、各人で異なった方法になる

2016年05月26日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-3-1. 節制は、各人で異なった方法になる
 食の節制は美味しいものの過食を抑制するという単純なことであっても、その具体的なやり方は、各自の個性に応じたものとなる。自分にふさわしい方法を見つけ出していかねばならない。水を飲んでも太る人とやせの大食いの節制の仕方は同じものではありえない。ことは過食しないという単純なことでも、やり方は無数ある。十人十色である。性的な節制のあり方も、もてる者と否とでは、まるでちがったことになる。


節制は、各自の、自由で個性的な抑制になる

2016年05月25日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-3. 節制は、各自の、自由で個性的な抑制になる
 節制は、食と性への欲求が快楽享受ゆえに過剰に傾きがちになるのを抑制する。食欲も性欲も、各人各様であり、各々において適宜に、過度にならず逸脱しないように制御する必要がある。ひとは、動物とちがい理性でもって食欲や性欲の自然感性を支配し自由にできる。その制御の自由を握っているのは各個人で、その感性も理性も各人のつちかう個性豊かなものである。節制は、各自の自律的自由のもと、その個性にあわせて創意工夫をもって展開していくものとなる。


贅沢・貪欲から、清貧・無欲へと転換の時代

2016年05月23日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-9. 贅沢・貪欲から、清貧・無欲へと転換の時代
 現代社会は、各個人の快適な生活を尊重する。食や性の快楽を大いに楽しむこととなっている。快楽主義的といってもよいような時代の風潮である。それが過剰となって適正なあり方から逸脱することもまれではない。とくに食に関して、前時代とはまるで異なって、大量に美味のものがあふれる状態であり、食への欲求を肥大化させるものとなっている。肥満は、ごくありふれた光景である。食べ物の廃棄処分など浪費も顕著である。おいしい物がたくさんあるのは好ましいことであるが、度外れになっている。消費者は、過食となり、贅沢となり、浪費をしている。社会全体の向かうべき方向として節制が求められるようになっている。
 現代社会の贅沢は、資源を浪費して地球の破局をもたらしかねないまでになっている。エコロジーの運動は、この贅沢・浪費をいましめ、ごみをださず環境を破壊しない循環型の生活をもとめている。理性をもって合理的に自然を制御できる人間のことである。地球の厄介者になる愚かしいことはやめねばならない。
 節制は、無理に節し禁欲するのではない。欲望肥大化の生活をいましめ、過度の快楽享受を避け、健やかで適正な欲求充足に心がけるだけのことである。貪欲・贅沢へと逸脱することをやめて、無欲・小欲で清清しい清貧の生き方をすべき時代になっているのではないか。

 


節制の無欲は、快楽へのこだわりのなさ

2016年05月20日 | 中庸としての節制(節制論5)

5-2-8. 節制の無欲は、快楽へのこだわりのなさ
 食と性の欲求について適正に留まっていて、その貪欲、欲がないという意味での無欲のひとでは、もう節制はいらない。欲するところに従って、のり(規範)をこえず、の理想状態となる。節制の場合、「無欲」の状態に自覚されるものは、「欲求」の中庸・穏やかさであるよりは、「快楽」へのこだわりのなさであろう。「無快」状態に平気で、快楽に拘泥しないことであろう。性欲・食欲はあって健全で、快楽に引かれてその欲求を充足することに向かう。だが、おいしいもの・快楽へのこだわりはないということである。
 そのこだわりのなさは、おのれの主たる関心なり生きがいが、食や性の快楽によって動く動物的レベルにはないと自覚することに結ばれるものであろうか。あるいは、自分も動物ではあると食や性の快楽享受を楽しみながらも、これにのめりこむことのない距離を感じる健やかな精神生活を営みえているということなのかも知れない(病んだ精神は、ときに食・性に過度の慰安を求めることがある)。
 快楽は、どういうものであれ、ひとを魅了して耽溺させる傾向をもつ。知的精神的な領域でも、ギャンブルで人生を棒に振ったり、ゲームに夢中になって健康を損なうようなこともある。節制の意識は、快楽全般について、のめり込み不健全にならないように、快楽に執着しないようにと、無欲・無快の方向へと各人を導いていく。