5-2-6-1. 貪欲は、かならずしも悪くはない
「貪欲」の語は、動物的レベルの欲求から精神的世界にまでわたって広く使われている。精力的な強い欲求になろうが、食欲が旺盛で貪欲だからといって、社会的場面での欲求もそうなるというものではなかろう。動物的レベルの欲求が大きすぎるひともあれば、社会的な所有などに貪欲なひともある。もっぱら高度の精神的知的営為でのみ貪欲なひともあろう。
それらのなかで、他を排除したり、他から奪い取るような貪欲、限りあるものなのに必要を超えてむさぼるような貪欲は、醜いものとなる。これは、社会的な所有関係にしばしば生じることである。貪欲は、ここでは他をかえりみることのない邪悪な欲望と化すのであり、嫌悪されるべきものとなる。
科学の探求や芸術の創作などでは、その欲求が大きくて貪欲といわれるのは、むしろ高評価の形容になる。貪欲は、貪るもので下賎・野卑の気味が強かろうが、下賎になりにくい高尚な領域のこと、芸術などでの意欲的で精力的なあり方をときに貪欲で表現するのである。
食と性においては、貪欲は、通常は、否定的な評価にいう。快楽享受はこれを恣に放置しておくと過剰に、逸脱したものになりがちであり、ほどをわきまえず欲張って、貪欲となる。食欲・性欲においては、無欲・寡欲・小欲が高評価語ということになろう。
5-2-6. 貪欲でなく、無欲・寡欲・小欲に
欲求は、金銭欲以外は、通常は無際限に価値物を求めるものではなく、必要なだけを満たすことで充足する有限な欲求である。一定の限度・上限でおさまる。しかし、これを超えても求めることがある。必要を超えて多くをむさぼり求めるのは、「貪欲」といわれる。欲を出す、欲張るということである。逆に、欲求を必要かそれ以下にとどめることもある。貪欲な「欲」の無いものとして「無欲」といわれるものになろう。小欲・寡欲も同類であろう。
食や性の欲求は、快楽への欲求である。不快が、それのある限り排除したいことになるのと反対に、快楽であれば(快楽の感情は、その物事を好ましいものと捉えてこれの受け入れ・享受に動こうとするから)、その快楽の続く限りどこまでも受け入れたくなるものである。食欲も性欲も、過度に、つまり、貪欲になりがちなので、節制は、これをいさめる。かつ、この節制がうまく続くなら、その欲求は、貪欲でなく、適正なだけのものを求める姿勢にと変わっていく。適正な必要なだけのものに慣れると、欲求する度合いが小欲・寡欲になり、無欲といわれるようなものになりうる。
無欲は、貪欲・欲張りの「欲」が「無」い、慎みのある謙虚なこころの状態であろう。無欲なひとは、欲求が無いわけではない。その欲求にこだわることがなく、適正さを欠くとか無理なことなら、簡単に断念してこれを忘れる、とらわれのないひとであろう。
5-2-5-4. 節制は、快楽への貪欲を抑制し、欲で無いものにできる
ひとの貪欲は、強引にこれを中断したり適正なものにと改めることができる。刑務所や病院では、難なく節制を実現している。外的に強制するのだが、適正なものであるから受刑者も患者もこれをスムースに受け入れてしたがうことになる。自身のする理性的制御である節制も、はじめは貪欲をそとから締め付けて無理やりにも適正なレベルにと導くことになるが、それが合理的なものであれば、しだいに貪欲は勢いをなくしていく。やがては、欲求自体が欲張りでなくなって、欲求水準をさげたほどほどのものにと変容していく。貪欲でなく適正なものになった欲求は、欲張っていないのであり、「欲」で「無」く、「無欲」なものとなるのである。
食欲は、飢餓的なら、空腹を満たせる栄養物ならなんでもよいと、必死になってこれを欲求する。だが、そうでない恵まれた現代社会では、日に三度食べる場合、しばしば、まだ空腹でもないのに、そとに美味しいものを見出して、これを欲するものとなる。おいしければ、これを貪欲に過食するが、おいしくなければ、少食で終わる。欲求は、飢餓的な状態でない場合、好き嫌いをもっての余裕のあることで、相当に可変的だというべきである。節制の自覚をもって理性が欲求を制御していけば、可変的な欲求は、貪欲なものから、適正な、欲張らないもの、無欲なものにと変わっていくことができる。
5-2-5-3. 満足は、主観的な妄念であってはならない
江戸の封建の世では、贅沢が禁じられ、知足が求められた。だが、食うか食わずの貧困な状態に満足(知足)をいっていたのである。客観的には栄養不足のなかでやせ我慢をさせられていたのである。ひとの心は、融通がきき、不足状態にも満足できるし、現代のように充足できていても不満をいだくこともできる。江戸時代は、多くの餓死者を出す飢饉を繰り返していた。食料不足ゆえに間引き(嬰児殺し)の行われていた時代である。その客観的な窮乏のもとでのやせ我慢は、単なる妄念の知足でしかなかった。
現代のスローライフなどのエコの生活をいう人たちは、江戸期とちがい、客観的に足りたその最小限に満足しようというのであるから、これは、ひとつの理想的な姿勢と見ることができよう。食でなら、バランスのとれた栄養で客観的に充足しつつ、摂食の過多・贅沢をいましめ、環境への負担の小さい節度ある生活を求めるといったことになろうか。
食の快楽をほどほどに満足をという姿勢は尊いが、無思慮なやり方は避けねばならない。主観的に思い込みで節するのではなく、客観的にしっかり事を解明し、よく理解をしてのものである必要があろう。塩分は控えめで満足すべきだという思いは立派でも、なにに塩分が多いのか、その方面の分析をよくふまえたものでなくては、空振りとなろう。たとえば、食パンは、塩分がないかのように見えるが、実際は、結構塩分が入っているものだという。
5-2-5-2. スローライフ
現代人の欲求は、貪欲で、欲望は、肥大化して留まることを知らない。この欲求を満たし続けると、自然の諸資源は近々枯渇するとすら言われている。その点で、江戸時代の生活様式は、環境に大きな負担をかけず、エコロジーの点からみて優れた体制になっていたと見直されている。過食抑制の無用な、節制以前の貧しさにあった時代だが、欲求を抑え、質素・倹約に心がけた江戸の精神自体は、現代が見習うべき心構えであろう。
現代社会のなかで、質素に慎ましやかな生活をというひとたちがいる。スローライフとかロハス(LOHAS=Lifestyles of Health and Sustainability)といわれる生き方である。貪欲を当然とし、それを満たそうとあくせくする現代社会に反逆して、スローにのんびりと生活したいというスローライフでは、その欲求は肥大化をもとめず、節制の姿勢が地についたものになっている。ロハスは、「健やかで持続可能の生活様式」、健やかさをもとめる節制の精神そのもので、持続可能なエコの生き方をめざし節度ある生活をしようとの試みになろう。
情報革命の進展は、これまでの生き方の革命を求めている。まもなく大量失業の時代に入ろうという。楽天的に見れば、仕事はロボットにまかせ、ひとは、自分の好きなことをして生きればよいという時代である。中高年に比して資本制的な貪欲の物欲から解放された若者が目立つ。若干たくましさに欠ける若者たちだが、あるいは慎ましやかに生きる新しい時代を先取りしているのかも知れない。