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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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削り鰹まぶし、味付け海苔いり、卵かけ御飯

2011年04月26日 | 日記
 「舌きり雀」では、雀かそのそばに視座を固定してみるなら、つまり、雀からいえば、「舌が切られた」と受動形になる。「舌きり」とそれを能動形にしているのは、「雀」に視座・観察主体を固定せず、関心の的となる「舌を切り取る」という事態に応じて、視座をそこにもっていっているということなのであろう。
 「卵かけ御飯」では、まずは、観察の視座は、「卵をかける人」かそのそばにあり、お茶碗のうえから「生卵をかけ」るのであり、つぎに、御飯に視座を移動させ、あるいは御飯になりきって「御飯」となるのであろう。ご飯が主たるものだから、視座を一点に固定したものの見方からは、いわゆる遠近法がそれになろうが、ご飯に「卵がかけられる」のであり、ご飯からいえば、「卵かけられ御飯」である。だが、われわれは、視座を固定せずその都度移動させるのである。
 それは、ちょうど、近代の遠近法をとる以前は、視座を移動させて絵を描いていたようにである。廊下や壁が手前から奥の方まで(遠近法なら遠方ほど小さくし、最後は一点に収束するのだが)おなじ寸法(幅)で描かれるようにである。壁の手前に水桶と杓をもった老婆がおれば、そこに視座をおき、その向こうにお百度を踏む女性がおれば、その壁にそって視座を移動させ(カメラをそこまで移動させ)、遠方に不動尊の石像があれば、同様、平行線で描かれた壁にそってそこまで視座を移動させてこれを描いていた。「水かけ、お百度踏み、不動」図である(不動尊に視座を固定した遠近法では、「水かけられ、お百度踏まれ、不動」になろう。なお、形容するときは日本語では動詞は原形の能動形にしなくてはならないというわけでもない。「叩き婆」では暴力をふるう婆になる。逆なら、やはり受動で「叩かれ婆」というべきである。「憎まれっ子」は、「憎みっ子」と言われることはない)。
「卵かけ御飯」は、手のこんだものになると、別のお碗に卵を割っていれ、その生卵に醤油(最近は、卵かけに特化した醤油があるとか)をかけ、これをかき混ぜ、ねぎを添え、海苔や鰹節をまぶして、あつあつ御飯にかける。客観的な遠近法的なとらえ方をすれば、カメラをご飯のそばに固定したままで、ご飯からいえば受動的形容になるから受動形を連ねて、「刻まれた葱が添えられ、干された鰹の削られたものや、味を付けられた海苔をまぶされた生卵、これがかけられた、温かさの保持された御飯」といわれるものになる。だが、注目されるもののそばに視座をその都度移動するわれわれの場合、「刻み葱添え、削り干し鰹まぶし、味付け海苔いり、なま卵かけ、あつあつ御飯」となる。カメラを移動させていくのである。「母が刻んだねぎを私が添え、漁師さんの干した鰹節を母が削り私がまぶした、さらには海苔業者が味を付けた海苔の入った、この生卵、これを私がかけた、母がつくったあつあつ御飯」である。


卵かけ御飯

2011年04月25日 | 日記
 ひとは、ものを一つのことば(概念)で表現するが、それが他のものとかかわったり、注目にあたいする特徴をもっている場合、このことばに別のことばをもってきて形容する。「舌きり雀」や「卵(かけ)御飯」では、あるのは、一つの全体としての「雀」であり「御飯」である。その全体をなす一つのもの(雀や御飯)に注目して、そこにか、そのそばに視座を持って、形容するものを眺めることになる。雀を見る視座から、「舌の切断」が修飾・形容され、「御飯」を見る視座から、「卵」のかけられるのを見る。
 だが、その形容するものは、きわだつものだからこそ、もとのもの(雀や御飯)から切り離されたのであり、注目度からいうと、独立的な地位をもつものになる。「あんパン」「クリームパン」は、一つのパンである。だが、そのパンにつつまれた「あん」や「クリーム」は、そのパン以上に食べる者の関心をひく。「あんパン」に「あん」がなかったら、だまされたと憤慨する。パンはなくても、「あん」や「クリーム」があればいいというぐらいに、意識・注目度からいうと、パンから独立性をもつ。意識としては、「あん」の注目されているときは、「パン」は、無視されていることであろう。もともとがパンだから、義理堅いひとは、パンを中心において、それに「あん」が添えられただけと、どこまでも視座をパンにとどめ続けるかもしれない。だが、われわれの多くは、「あん」が注目されるところでは、パンのことは忘れて、「あん」を主人公とみなし、これにのめりこみ、もっぱらこれに注目することに傾く。
 その修飾するものが注目の度合いをつよめると、本来的に主となり中心にあるはずのものは、その限りでは、意識からは遠のく。「卵かけ御飯」では、「御飯」ぬきで「卵(かけ)」だけがそれから独立的にとらえられることになっていく。御飯の場から見るのではなく、卵のある場に立って、これを見ることになる。その視座は、その卵のそばにひとがおれば、これにあわせた視座にたつことになり、食事する者が「卵」を割って「かけ」ていくひとつの独立的なシーンを描く。「卵をかける」シーンである。そしてその後、肝心の「御飯」が意識され視座をそこへと移動させる。「卵かけ」「御飯」となる。
 「舌きり雀」も、「舌きり」が注目される場では、洗濯のりを食べた(お爺さん愛玩の)雀に激怒したおばあさんがその「舌を切る」というセンセーショナルな場面をえがき、これに意識はとらえられる。おばあさんが雀の舌を切った、「舌きり」である(この場の素直な表現は、行為の主体のおばあさんを主語に、雀の舌を目的語とした、切り取るという能動形であろう)。そして、全体としてのこの舌の持ち主の「雀」へと視座を移動していくのである(雀に視座を移した後はじめて、さきの「舌きり」は、雀にとっては、実は「舌を切られる」受動だったと見直される)。こうして、「舌きり」・・「雀」となるのであろう。


前回の「舌きり雀」の続き

2011年04月23日 | 日記
 
 前回の日記で(といっても昨年の、こいのぼりの見られた頃のことだが)、「舌きり」雀は、本当は「舌切られ」雀のはずなのに、どうして「舌きり」なのかと問題にした。舌を切る「舌切り」のおばあさんがいて、舌を切られたかわいそうな「雀」がいる昔話であった(雀を愛玩する、おそらくは生活力のないお爺さんと、暮らしを支えるのに必死でヒステリーをおこしそうなお婆さんの家での話で、「浦島太郎」同様、年齢によって理解と関心が甚だしく異なる、よくある共感をよぶ話であった)。「舌きり」は、雀を形容するのではなかろう、「舌きり」の「雀」ではなく、「舌きり」と「雀」と解すべきだろうと私は言った。が、おそらく、これはまちがっている。やはり、雀を直接に形容したものと解するべきであろう。
 他の同様の(受動形になるべきを能動形でいう)用法が日本では日常的に万とあり、それらからいうと、雀を形容していると見るべきである。周囲を見渡すだけでも、「(壁)かけ時計」(実は、かけられた時計)、「置き時計」(置かれた時計)、「すまし汁」(清まされた汁)、「味付け海苔」「さけ茶漬け御飯」など、いくらでもある。
 「味付け海苔」にしても、最近はやっているとかの「卵かけ御飯」にしても、舌きり雀と同様の構成からなるものだろう。「味を付ける」海苔というが、味をつけたのは、「味付け」海産物業者である。海苔としては、「味が付けられた」のである。「たまごかけ」は、食べる者がたまごを割って自分でかけてのものである。御飯からいえば「生たまごのかけられた」「御飯」である。海苔・御飯からいえば、受動的表現が理屈にあっているように思える。だが、「卵かけられ御飯」では、御飯が、生卵で汚されて、いやがっている感じになる。能動的に形容する方が、どうしてか自然に感じられる。
 「舌きり雀」(舌を切られた雀)や「こぶとり爺さん」(いまは「小太りの爺さん」になるが、昔話では「瘤を取られたお爺さん」のこと)は、誤った形容の仕方とはいえない感じである。日本語では、受動のはずを能動形で形容するのは、ごくありふれたことになる。「ちらし寿司」とか「まぜ御飯」は、いずれも同様に、事実としては「(卵やえびといった具が)散らされた寿司」「(具が)混ぜられた御飯」である。「焼き魚」「煮魚」は、「焼かれた魚」であり、「煮られた魚」である。だが、いずれも、当たり前のようにして、受動ではなく、能動の形で形容するのがわれわれである。


舌きり雀、花さか爺

2010年05月09日 | 日記
 こどもの日の「日記」のつづき。「舌きり雀」や「こぶとり爺さん」は、受動であるべきを能動形で形容していて奇怪な表現である。だが、それが百年二百年と語りつづけられ、訂正されることもなく過ぎてきた。おそらく、それでいいということなのであろう。
 どういいのであろうか。まず、会話など言語による情報伝達は、言語そのものによるだけではないことがあげられる。会話するときの話者のアクセントの置き方とか、感情の込め方で相当に伝達されるものが異なることになる。言語での情報伝達にしめる、言語外情報の率は相当に大きいという(なんでも言語情報自体は、一二割にしかならないとどこかで聞いたことがある―間違いかも知れない。電子メールでの「はい」に比して、肉声の「はい」は、何倍もの微妙な情報を含んでいるということである)。「いいよ!」と是認する表現になっていても、感情の込め方では、逆に、否認していると聞こえる。
 舌きり雀では、極端を言えば、語り手は、「舌きり」で、婆さんが「切る」のだと悪感情をこめて、はさみでちょきちょきするまねをし、それにつづけて、きられる雀については、かわいそうな「雀」よとあたたかい気持ちをこめると。語る方のこの感情的表現を聞き手も察することができるのである。
 「舌きられ」雀になりにくいのは、イメージを作る事が受動形ではむずかしいこともあろう。「きる」こととか「とる」ことは手を動かすだけで表現もできて、語りやすい。だが、きられることや取られることは、手で表現するのは簡単ではない。これも「舌きり雀」「こぶとり爺」といった能動形を取ることに傾く一因であろう。肝心なのは、舌をきること、こぶをとることであり、誰が切り切られ、取り取られるのかは、その次の分節になり、まずは、簡にして要、「切る」「とる」が肝心なものとして全体から切り取られるのであろう。
 文法的にいえば、「舌きり」は、「雀」を形容するのではなく、話全体を形容するのであろう。「雀」との間には多くの媒介過程があるのだが、省略、短絡的につづめているということであろうか。「舌きり」の「雀」ではなく、「舌きり」と「雀」と解するべきなのであろう。
 これを支える精神は、簡略を尊ぶわが国の日常生活にある。狭い空間にひしめいて生きるわれわれには、分かりきった共通の前提が多く存在し、全部を事細かに表現するのは、くどいことになる。ことを代表することばの若干を挙げるなら、それだけで全体が聞き手にもうかびあがってくる。狭い家屋の中では、夫は、お茶が欲しいときも、風呂に入りたいというときも、電話を渡すときも、「おい!」というだけで妻に十分通じる。電話を渡すとき、「この電話は、孫の、國男じゃったか、幸夫じゃったか、でまかせをよお言うて無責任な方はどっちじゃったか、お兄ちゃんの方じゃったかのお。そのお兄ちゃんの方の電話なんだけど、なんでも、夏休みが近いので、夏休みになったらすぐにでも、こどもだけで新幹線できたいのだとか。でまかせかのお・・・」と丁寧に言っていたら、妻は、いらいらしながら、「分かった、分かった、はやく電話を渡して!はやく!」と、話を折る。丁寧な話よりは「おい!」の方を百倍も千倍も好むことになる。
 近所でのあいさつも「こんにちは」と主語のみを口にし、以下は省略がいい。「こんにちは、快晴ですね。「今日は」、気温も、平年なみでさわやかで気持ちいいことです。「今日は、」去年の今日とはちがって、養老院でしたか、いや、そうではない、養老ぐらいにしか役に立ってない参議院でしたかの、ですから、まあ、「元老院」などの面影はどこにもありませんから、「養老」「院」なんでしょうが、でも今回は若い人が多い感じですよ、「今日は、」その選挙のスピーカーがうるさいですねえ・・・」というのを聞いていたのでは、バスに乗り遅れる。それを配慮すれば、相互に、「こんにちは、」だけに省略する方がいいのである。
 「花さか爺さん」も、「花」でもう予想がたち、「さ」「か」までくると十分に分かる。それで、灰で花をさかせるという周知の話の全体は十分にうかびあがってくる。「せ」までいうと「くどい」と。なお、ここでは、「はなさかせ」と5字になるはずを無理矢理4字につづめている。「したきり」、「こぶとり」も4字である。人名も姓は「はとやま」「たにがき」など4字も多い。ひとまとめにするに、4拍子の調子よさも後押しするのか。

少子化大臣で、少子化阻止(否定)の大臣とは?

2010年05月05日 | 日記
  きょうは、こどもの日だが、そのこどもの数は日本では年々減っている。なんでもこの29年間連続で、前年より減少しつづけているのだとか。増やすための政策をと、「少子化大臣」なるポストが設けられている。この大臣名、「増子化」大臣なら、文字通り、子供を増やす対策をとる大臣である。だが、「少子化」は、子供を少なくすることだろう。それなのに、少子化で、増子化を意味させるとは、どういうことなのだろう。
 ひとつには、政治の話で、内々には、将来の日本人がゆったりと生きるには人口が少なくなる方が本当はよいと思っていることがあるのかも知れない。だが、目先の選挙のことを思うと、年金のことがあり、老壮年の票を獲得するには、逆に増子化をマニフェストにうたう必要がある、といった事情である。
 裏表をもつことが当たり前の政治の世界の事情とは別に、要は理解できればいいので、短絡的表現が好まれることもある。「容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律」では長すぎるので、「容器包装リサイクル法」と略記するようにである。「(青少年育成及び)少子化対策担当大臣」では長いので、省略するのである。「少子化」も、これで事柄が理解できているのであれば、少子化の阻止であろうと推進であろうと、委細は省略していい。ただし、事情を知らないものは、文字通りに受け取る。素直な人なら、「少子化大臣」は、「少子化をすすめる大臣」と読む。
 「舌きり雀」「こぶとり爺さん」なども、その表現自体からいうと、「舌を切る加害者の雀」「患者のこぶをとる、年取った外科医」ということになる。だが、話を知っているものは、その表現に拘泥することなく、逆に、「舌を切られた被害者の雀」、「こぶをとってもらった年寄りの患者」を思い描く。「舌切られ雀」、「こぶとられ爺さん」では、舌をかみそうで、長いので、縮めて、受動形であろうが能動形であろうと気にすることなく、分かればいいので、「舌きり雀」「こぶとり爺さん」としたのであろう。
 「花さか爺さん」など、花を「咲かせる」ことが分かっているから、見逃しているのだが、その省略の仕方は、奇怪である。「花さか」という切り方はなかろう。「犬なか爺」「花から爺」と聞いて、これが何者か分かる人がいるであろうか。犬をなかせるから「犬なか爺」、花を枯らせたから「花から爺」であるが。
 理屈好き、論理的というイメージの欧米でもそういうことはある。かれらの論理の根本にある同一律・矛盾律は、筋が通っていない。同一律は、素直で、同一性をまもり貫く原理である。だが、矛盾律は、ひねくれている。矛盾をまもり貫くのではない。矛盾を排除・否定する、矛盾禁止の原理なのである。コピー権も、素直には、コピーする権利だろう。それをコピー禁止の権利と読むようごり押ししている。
 世界はいま、人口爆発のさなかにあり、人口増加阻止が求められている。そんななかで、日本がそれに反する人口増加の政策をとることは、どんなものであろう。温暖化の場合の二酸化炭素の削減と同様、「世界は減らせ!わが国は増やす権利がある。」などということは通じ難いのではないか。しかし、昨今の日本は過激に少子化している。並みの状態に戻るまでは当面「増子化」、日本と世界の長い将来を思えば、文字通り「少子化」、ぐらいを政治家たちは描いているのかも知れない。だとすれば、「少子化」大臣は、意外に巧妙な表現になっているのである。