
「卵かけ御飯」では、まずは、観察の視座は、「卵をかける人」かそのそばにあり、お茶碗のうえから「生卵をかけ」るのであり、つぎに、御飯に視座を移動させ、あるいは御飯になりきって「御飯」となるのであろう。ご飯が主たるものだから、視座を一点に固定したものの見方からは、いわゆる遠近法がそれになろうが、ご飯に「卵がかけられる」のであり、ご飯からいえば、「卵かけられ御飯」である。だが、われわれは、視座を固定せずその都度移動させるのである。
それは、ちょうど、近代の遠近法をとる以前は、視座を移動させて絵を描いていたようにである。廊下や壁が手前から奥の方まで(遠近法なら遠方ほど小さくし、最後は一点に収束するのだが)おなじ寸法(幅)で描かれるようにである。壁の手前に水桶と杓をもった老婆がおれば、そこに視座をおき、その向こうにお百度を踏む女性がおれば、その壁にそって視座を移動させ(カメラをそこまで移動させ)、遠方に不動尊の石像があれば、同様、平行線で描かれた壁にそってそこまで視座を移動させてこれを描いていた。「水かけ、お百度踏み、不動」図である(不動尊に視座を固定した遠近法では、「水かけられ、お百度踏まれ、不動」になろう。なお、形容するときは日本語では動詞は原形の能動形にしなくてはならないというわけでもない。「叩き婆」では暴力をふるう婆になる。逆なら、やはり受動で「叩かれ婆」というべきである。「憎まれっ子」は、「憎みっ子」と言われることはない)。
「卵かけ御飯」は、手のこんだものになると、別のお碗に卵を割っていれ、その生卵に醤油(最近は、卵かけに特化した醤油があるとか)をかけ、これをかき混ぜ、ねぎを添え、海苔や鰹節をまぶして、あつあつ御飯にかける。客観的な遠近法的なとらえ方をすれば、カメラをご飯のそばに固定したままで、ご飯からいえば受動的形容になるから受動形を連ねて、「刻まれた葱が添えられ、干された鰹の削られたものや、味を付けられた海苔をまぶされた生卵、これがかけられた、温かさの保持された御飯」といわれるものになる。だが、注目されるもののそばに視座をその都度移動するわれわれの場合、「刻み葱添え、削り干し鰹まぶし、味付け海苔いり、なま卵かけ、あつあつ御飯」となる。カメラを移動させていくのである。「母が刻んだねぎを私が添え、漁師さんの干した鰹節を母が削り私がまぶした、さらには海苔業者が味を付けた海苔の入った、この生卵、これを私がかけた、母がつくったあつあつ御飯」である。



