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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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舌を切られて「舌を切った」『舌切り雀』

2015年03月18日 | 日記

  「舌切り雀」は、おばあさんに舌を切られた。「舌切られ雀」だが、そうはいわず、「舌切り」という。それでずっと通ってきており、だれも文句はいわない。理解に間違いが生じないのなら、受動になるものでも、原形(能動形)でかまわないということなのであろう。

 「ガラス窓が壊れて、手を切った」という。能動的に自分から切ったわけではなく、受動的他動的にそうなったのに、「切った」と原形(能動形)でいう。原形があって、さらにそれでは間違いが生じて説明がいるとき、(歌舞伎の「切られ与三郎」のように)「切られた」と受動にしたり、能動であることを明確にするため「自分が切った」と主語を付け加えたりするのであろう。

 要は、通じることである。ことさらに特殊の受動形にしなくても、能動の原形において、受動が通じればそれでいいのである。日本では、言表なく暗黙の前提にできる度合いが非常に大きい。ちょうど、自分の頭のなかでの言語展開が極端に省略的なように、大きく省略が可能となっている。「お茶!」で分かりあえる親密さをもって生活しているのである。それを「お茶がどうしたというのよ!」と、分からないふりをするのは、親密さを拒否してのことである。「あ」といえば「うん」と分かるものを、詳らかに述べ立てていくと「しつこい、くどい」こととなる。省略的短絡的でいいのなら、親密度も示すから省略する方がいいのである。

 強盗にあい、切られたとき、「けがは?どこを切った」と問う。切られた当人も、「右腕を切った」というのではないか。強盗に切られたという受動は自明なこと、語る必要のない大前提で、その上で、切断の事実を明確にしようとするのである。「舌切り雀」もこれである。おばあさんに切られたということは自明の大前提で、問題は、語るべきは、その負傷の具体である。「羽根」や「頭」でなく、「舌を切った」のである。それで、「切られ役」ではあるが、「舌切り雀」である。


このgooのブログが有料になるというのは、小生の勘違いだった

2015年03月13日 | 日記

このgooのブログが有料になるというのは、小生の勘違いだった。
 gooメールが有料となったのみのようである。ブログは、これまで通り、無料のままのも残っていくのであろうか。有料化すると勘違いして、すでに無料のも のに移ってしまった。
 googleのブログに引越ししたので、このgooの方が見やすいのではある が、googleで続けることだが、過去のこのブログを振り返ってみて、若干、 気になることがある。
 何年か前のこの時期(2010年)、「舌きり雀」は、「舌切られ雀」なのにど うして「舌きり」でいいのかと問題にしたことの続きである。そのときには、「舌きり」「雀」は、「舌きり」の「雀」と形容するのではなく、「舌きり」と「雀」 と並列的で「そして(AND)」で結ばれるだけであろうと考えた。
 だが、その翌年(2011年)これを振り返ってみて、やはり、「舌きり」は、「(おばあさんが)その舌を切った」ところの「雀」と形容しているのであり、簡略を尊んでできるだけ動詞原形の能動形にするが、恐らく聞き手が「雀」と耳にしたあと、雀にはその能力がないから受動に解釈しなおすのであろうと考えを改めた。「招き猫」「飼い猫」「捨て猫」でいえば、猫には招く能力はあるから「招き猫」だが、飼ったり捨てる能力はないから、「飼われ猫」「捨てられ猫」と受動に解釈しなおすのだと。
 この受動への聞き手による解釈に関して、読み直してみて、どうも、そういう意識展開はしていないように感じられ、この点は、再考するべきだと思うようになっている。「舌きり雀」「瘤取り爺さん」「飼い猫」と聞いて、わざわざに受動に解釈しなおすような面倒な意識展開は一般的にはしていないであろうということである。


「舌きり雀」は、いずれは「舌を切る残酷な雀」になる。

2011年05月03日 | 日記
 「飼い」犬と、形容が能動形でありながら、意味において「飼われている」犬と受動・受身に解されるのは、その動詞で形容されるものが、その能動的能力をもっていない場合である。これが基本であろうが、特殊的には、能力はもっていても、語り手と聞き手の間で了解がなりたっておれば、いわば共同幻想のもと、受動に解することができる。「羽根とり雀」は、一般的には、ほかの小鳥などの「羽根をむしる」雀だが、焼き鳥屋さんでは、丸裸の雀を前に、お客とのあいだで、共通のいわば通のことがらとして、「羽根をむしられた」美味しそうな雀と、受動に了解しあうことがあってよい。
 いずれの場合も、受動形にしたくないか、能動形の方が好ましいという事情があるのであろう。能動形に傾く理由は、まずは、英語なら後で説明の節とするものをわれわれは前に出していくので、受動になるものでも、はじめに置く視座・カメラのある説明節の段階では、明確でなく、原形としての能動形が取られやすいということがあろう。その段階での表現は、後の形容されるものを中心にはしない。あとになって、必要なら能動的表現を受動と理解しなおすことになる。さらに、受動形は、単純な能動形に「れる」「られる」を追加して表記するので、語りにくくなることがある。まちがいが生じないのなら、単純形・簡単系の能動形にしたくなる。また、受動・受身は、それ自身に発する能動的自発的なものの反対で、外的に付け加えられた余計なものの感じになりやすいこともある。「卵かけご飯」でなく「卵かけられご飯」になると、抗議行動で生卵をなげつけられるように、ご飯に不快なものが外からかけられた感じになる。「水かけられ不動」では、この水は、不動尊には不快なものとなりそうである。そうなると、「水かけ不動」も、けんか腰になって、杓子定規に文字通りの「水をかける」不動尊で通し、例の憤怒の牙を見せながら「このやろう、冷たいではないか。これでも食らえ!」と水をかけ返すようなことにもなりかねない。
 能動形で形容するのが一般的だからといっても、形容される方にその能動の能力があるのを無視して、これを受動に読み替えようというのは、例外的なことになる。語り手と聞き手の間で、周知の昔話のように、あるいは共同幻想につつまれた「水かけ不動」のように、実は受動なのだとの了解が成立していなくてはならない。「舌きり雀」では、「舌きり」と言われて、舌を切る能動的行為を描き、その後、「雀」と聞いて、「雀にはその能力はあるが、そうだ、この国民的な昔話では「舌きり」とは「おばあさんが舌を切る」ことであり、雀からいうと「切られる」のだ」と、「舌きり」を「舌切られ」とイメージしなおすのである。そういう特殊な了解がないところでは、当然、能動の意味で受け取られる。「舌きり雀」「こぶとり爺さん」の話が廃れた時代には、あるいは、この昔話に親しんでない現代人でもそうなるが、一般的理解をして、すなおに、「舌を切る、残酷な雀」「瘤を取る、変な爺さん」と解することになる。
 (と、いまは思うのだが、これも前(昨年のいまごろ)と同じく、そのうち、「なんか違うなあ」と感じるようになるのかも知れない。)

「飼い猫」は「飼われ猫」、「癒し猫」は「癒し猫」

2011年05月01日 | 日記
 「舌きり雀」の表現は、この昔話を知らないものが聞いたら、「舌を切る、残酷な雀」と受け取る。「羽根とり雀」と聞いたら、他の小鳥か昆虫の「羽根をむしる雀」になり、「羽根をむしられた雀」には解されない。特殊な事情がなければ、能動の形で形容すると、形容されるもの自身の能動的所作の表現となる。
 「すまし汁」は、だが、汁自身が「澄ます」ものとは理解されない。汁にはそういう能力がないから、その能動的な営為は、汁以外のものによると解される。まずは、視座・カメラを、出来上がった汁でなく、「澄ます」料理の能動的営みの場の正面に置く。そのあとで、出来上がった「汁」にカメラを移す。さらに、「汁」の出たところで、改めて、汁自体には「澄ます」能力はないということで、先行の「澄ます」は、汁にとっては「澄まされる」ことになると解釈しなおすのである。話の最後になって解釈しなおすのは、われわれでは、ふつうのことである。「かれは、老人を大切にする、心のやさしい、よく気がつく、そういう立派な人間じゃ、ない」というように肝心のことが最後になって分かり、最後になる直前まで逆の理解をしがちともなる。
 一般的にいえば、動詞をもっての形容は、前後を見ずにそこに焦点をあてて叙述する場合、原形の能動形にするのが自然になる。そして、能動形で修飾・形容する場合、その形容されるものが、この能動的営みの能力をもっておれば、その能動的営みの主体となる(英語でいえば、関係代名詞以下の節において、先行詞が同時にその従属節の能動的な動詞の主語になるということ)。「かみつき亀」は、攻撃的な「かみつく」亀であって、かみつかれる亀を意味しない。かめは、かむ能力をもつからであろう。だが、そういう能力をもたない場合は、能動的行為の主体は、別にあるということになるから、能動形でもって修飾されるものは、受動的な位置にあると、あとで解釈しなおされる。前に置かれる説明する節(英語でいえば、whichにつづく後置される従属節)では、なるべく手短に形容してあとの肝心のものにかかっていく必要もあり、主語修飾語あたりは省かれる。省けない間接目的語や直接目的語があれば、それを動詞にぶっきらぼうにひっつけて、「卵をかける」というのを「卵かけ」(ご飯)といい、「壁にかける」のを「壁かけ」(時計)と表現して、あとは、阿吽の緊密な相関関係のうちにある聞き手の解釈にゆだねる。聞き手は、「置き、時計」と耳にする場合、時計には「置く」能力はないということで、実はひとが「置く」のだ、時計にとっては「置かれる」のだと、「時計」が出てきたところで解釈し直す。
 「飼い猫」では、猫には鼠などの「飼い主」になる資格はないから、その「飼う」は、「ひとが飼う」ということになる。「飼い猫」は、「(人が)飼う(ところの)猫」であり、猫からいうと、「飼う」は、「飼われている」ものと受動的に解釈し直されねばならない。「捨て猫」も「捨てる」猫ではなく「捨てられた」哀れな猫である。だが、「招き猫」「癒し猫」では、猫自身がお客を「まねき」、ひとを「いやす」のであって、その能動表現のままに、猫の能動的所作と解釈されていく。


すまし汁

2011年04月26日 | 日記
 「舌きり雀」では、おばあさんの「舌きり」から被害者の「雀」へと視座(カメラ)を移すのだろうと言ったが、文法的にいうと、英語などの、関係代名詞をつかった従属節をもって、これを理解するといいのかと思う。
 「卵かけご飯」は、ご飯を固定的に中心において形容するのであれば、「卵のかけられたご飯」となる。だが、われわれは、「卵をかけた」と能動的表現をもって、「卵かけ、ご飯」という。「食べる人が卵をかけた、ご飯」である。これは、英語などでは、whichやwhoで従属節をつくって、あとにつけて説明するやり方になるものであろう。「わたしが、卵をかける」ところの「ご飯」である。その主語を省略してというか、日本語では主語は単なる(主語)修飾語なので、なくてもいい(逆にいくつあってもいい。軽いのである。「日本は、広島が、八月は、六日が、朝は、みんなが、目頭が、熱くなっている。」といくらでも主語(修飾語)はおける)から、省いて「(わたしが)卵をかける、ご飯」、つまり「卵かけご飯」となるのであろう。英語でも関係代名詞whichの従属節のなかになると、主語は別のものになりえて、その目的語として、whichがかかっていくもの(先行詞)をあげうる。当然、視座(カメラ)は移動している。
 日本語の場合、この説明する関係代名詞以下の従属節になるものを、説明されるものの前におき、かつ、関係代名詞にあたるものを置かない。英語を一字一句の対応で直訳するときは、whichのつもりで「ところの」をいれて、「わたしが一つの卵をかけるところの、ご飯」と洋風に翻訳する。
 「すまし汁」は、汁からいうと、清まされている汁なのだが、関係代名詞whichの節をつかうようにして、「わたし(料理人)がすましたところの、汁」ということで、「すまし汁」なのであろう。ゆっくりと発音して、「すまし、汁」というと、「すまし」のところでは、料理するひとが澄んだ出汁をつくる様子が思い浮かべられ、つぎに、そういう「汁」なんだと進む。視座(カメラ)が移動する。英語では、カメラの移動をwhichやthatをもってくることで明示し、かつ説明する従属節は後置する。だが、われわれは、説明の従属節となるようなものも前に置き、かつwhichのような視座移動の記号も明示しない(「ところの」を無理すれば、入れられるが、「卵かけご飯」でも長くて「卵ご飯」にしようかというのに「卵をかけるところのご飯」では、冗長でイライラしてくる)。前に置くので、これが形容するあとに出てくる主たるものはよく分からないままで従属節になるものを語り(従属節に相当するとは分からずに聞くこともしばしばである)、さしあたり原形で能動形に表現しがちとなる。かつ、後に出てくる主たるものと離れては形容していることが見えにくくなることもあり、できるだけ瑣末の主語修飾語などは省略して、形容詞的にして置く。
 「舌きり雀」は、英語でいえば雀の後に従属節をもってきて説明するものを、われわれは前に置ているのであり、「(お婆さんが)舌を切った(ところの)雀」ということで、「舌きり雀」である。