「舌切り雀」は、おばあさんに舌を切られた。「舌切られ雀」だが、そうはいわず、「舌切り」という。それでずっと通ってきており、だれも文句はいわない。理解に間違いが生じないのなら、受動になるものでも、原形(能動形)でかまわないということなのであろう。
「ガラス窓が壊れて、手を切った」という。能動的に自分から切ったわけではなく、受動的他動的にそうなったのに、「切った」と原形(能動形)でいう。原形があって、さらにそれでは間違いが生じて説明がいるとき、(歌舞伎の「切られ与三郎」のように)「切られた」と受動にしたり、能動であることを明確にするため「自分が切った」と主語を付け加えたりするのであろう。
要は、通じることである。ことさらに特殊の受動形にしなくても、能動の原形において、受動が通じればそれでいいのである。日本では、言表なく暗黙の前提にできる度合いが非常に大きい。ちょうど、自分の頭のなかでの言語展開が極端に省略的なように、大きく省略が可能となっている。「お茶!」で分かりあえる親密さをもって生活しているのである。それを「お茶がどうしたというのよ!」と、分からないふりをするのは、親密さを拒否してのことである。「あ」といえば「うん」と分かるものを、詳らかに述べ立てていくと「しつこい、くどい」こととなる。省略的短絡的でいいのなら、親密度も示すから省略する方がいいのである。
強盗にあい、切られたとき、「けがは?どこを切った」と問う。切られた当人も、「右腕を切った」というのではないか。強盗に切られたという受動は自明なこと、語る必要のない大前提で、その上で、切断の事実を明確にしようとするのである。「舌切り雀」もこれである。おばあさんに切られたということは自明の大前提で、問題は、語るべきは、その負傷の具体である。「羽根」や「頭」でなく、「舌を切った」のである。それで、「切られ役」ではあるが、「舌切り雀」である。