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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

このブログ廃止で、以下に移る予定
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ヒトラーが反節制の人だったら、戦争犠牲者はもっと少なくて済んでいたかも。

2012年12月01日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

1-2. ヒトラーが反節制の人だったら、戦争犠牲者はもっと少なくて済んでいたかも。
 節制(temperance)運動というと、最近は、肥満対策が主であるが、かつては禁酒運動であり、いまも禁煙運動は盛んである。禁煙をけむたがるひとのなかには、禁煙運動の元祖としてヒトラーをあげることがある。ナチスは、妊婦の禁煙をすすめるなど国民の健康政策での先駆的な運動を展開した。ヒトラー自身は、どこまで節制のひとだったのかは知らないが、「禁酒」「禁煙」「菜食主義」のひとで、チャーチルのような肥満体でもないし、その点では健康的であった。これが、新生ロシアのエリチン大統領のように酒びたりで肥満体でと、反節制の不健康な人間であったら、ヨーロッパのひとたちの戦争被害はもっと小さくてすんだかも知れない。
 善人が節制するなら、より健康になって、その善行はいっそうすすむ。節制は、善を促進する。不摂生・反節制をつづけたのでは、健康をくずして病気になり、善行は、とどこおりがちになって、悪しき結果をもたらすであろう。だが、悪人が節制して元気になると、いっそう周囲への悪行に精を出すこととなる。悪人に節制をすすめることは、悪行をそそのかすことになりかねない。
 暴力団員になるような者は、不摂生で、刹那の快楽にながれがちで麻薬中毒などで身を滅ぼすようなことが少なくない。それは、かれら自身の生にはマイナスだが、周囲の市民には、かれらが麻薬中毒で廃人になったり病気になってくれれば、悪行の被害が少なくてすむことになる。極論するなら、悪人の節制は、一層の悪を周囲にもたらし、その反節制の結果は、朗報をもたらすといえなくもない。


節制・勇気をけなす者と、正義をけなす者。

2012年11月24日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

*「勇気について」は、連載を終了しました。まとめたもの、広大図書館の「広島大学 学術情報リポジトリ」に入れてもらいました。以下のアドレスです。(http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033771
*つけそえて、しばらく以下に「節制・勇気と正義のちがい・・」を考えてみます。

1. 節制・勇気をけなす者と、正義をけなす者。
1-1. 節制・勇気は、正義とともに枢要な徳といわれるが・・・
 古代ギリシャ以来、節制・勇気・正義は、枢要な徳目として説かれてきた。だが、節制と勇気は、単純に徳とみなすことはできない、といわれることがある。悪人が節制して健康になると、ますます悪行に精だすことになる。悪人は、勇気をもてば、より危険な犯罪に手をそめることになるであろう。つまりは、節制や勇気という個人のための私徳は、その個人しだいでは、悪をそそのかしかねないのである。
 これに対して、正義の場合は、かりに悪人が実行したとしても、悪・不正をやめて正義を行うのである。不正をして私欲をみたすような悪人であっても、正義を守れば、みんなのために善となる。悪人が自身に正義を貫くと、自分の不正を自身で禁じることになり、悪を拒否した正義のひととなる。正義は、社会生活に資する公徳の代表で、これは、節制や勇気とちがって、だれが行っても善となり徳として通用することになる。
 だが、法を守り不正をしない正義など、普通のひとには当たり前のことで、正義は、単なる法(律)の世界であって、(美)徳に達するものではないとも見なせる。正義は、守らないと不正になって犯罪となる低い基礎的な規範にとどまる。これに対して、節制や勇気は、守れなくても犯罪にならないことはもちろん、非難もしにくいぐらいで、つらぬくことが困難な高い美徳になるのだともいいうる。