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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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法としての正義は、心を正さなくてもよい底辺の道徳

2013年04月20日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-6. 法としての正義は、心を正さなくてもよい底辺の道徳
 正義は、法にかなうことを求める。皆がこれだけは守らねば秩序ある社会生活は成り立たないという最低限度の約束・規範を法律にはあげる。実行困難な道徳も法律にうたえば法になるが、通常は、まもるべき最小限の基礎的な規範・道徳を法とする。それから外れる事は、即、不正・悪として処罰の対象となるような、ぎりぎりのところに正義・法は、存在している。普通の者にはそれらの正義は当たり前のことで、不正・違法に陥ることはない。法・正義は、ひとが無法者になるのを防ぐ底辺の道徳である。
 合法・遵法としての正義では、その心は問わない。こころはどんなに醜く下賎でもいいから、行動だけは最低限、適法になるようにと求めるものである。エゴの利害対立下の世界では、こころは、私欲に支配され利他の精神などなく醜悪であるのが一般であろう。その不正・邪悪な心をうちに押しとどめて、正義は、エゴに適法・平等のしおらしい仮面・ベールをつけ、お互いを穏やかに交わらせる。
 根本は、エゴが悪いのだろう。正義自体は、貪欲なエゴ同士の利害対立を、平等の原理でもって治めて生産的なことをもたらす。正義の規範がないと、おそらくは果てしない報復や強奪の戦場となりかねない。法は、国家の権力(暴力)をもって強制的にエゴイストの不正・無法を排除し、正義の鉄壁を廻らせて市民を守る。
 正義は、エゴ・悪をただす強力な規範である。が、繊細さには欠け、正義の女神は、剣を手にし目隠ししている。有無を言わさず法に従わせ、杓子定規に平等に扱い、強引である。迷える子羊に目をかける愛とちがい、適法・平等を貫くために、「目隠し」して個を見ないようにする。各個の事情に配慮することがなく、正義は、弱者には無慈悲となりかねない。


正義は、エゴイストには収容所で、かつ桃源郷でもある。

2013年04月13日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-5. 正義は、エゴイストには収容所で、かつ桃源郷でもある。
 正義は、エゴ・利己主義の横暴を禁じて不正を罰し、これを抑制する。だが、正義は、利己主義自体を禁じるようなものではない。むしろ、その活動をスムースにしエゴを保護するためにあるものでもある。エゴの対立がなく強引な我欲の主張のないところでは、正義は出番がない。正義は、ゆずりあう愛の家庭には無用である。家庭で正義が登場するのは、これが崩壊しエゴをむき出しにしながら後始末をつける場面ぐらいである。
 利害対立の厳しいところではみんなエゴイストになって、可能なだけ自分の取り分を多くしようとする。この対立の困難をみんなの納得のいくように解決するのが、適法で平等にという正義である。エゴの醜さは、正義のベールで覆われる。エゴイストたちは、その我欲の醜さを捨て去って、穏和な遵法精神をもち相手を自分と同等に尊重する正義の担い手としてふるまうことになる。だが、正義の檻にいれられているとはいえ、そのエゴは、つねに自分のためにと動いているのである。
 正義の形式をとるかぎり、エゴは、自由に私欲を満たし、享受の自由としての権利・自分の持ち分を堂々と主張できる。正義は、そのエゴの貪欲をひとの正常な営みとして承認している。各人の権利(法)を各人にという正義は、格差があれば、それに見合うインセンティブをつけて、2の貢献には2の報奨を、5の貢献には5を等しく配して、エゴが意欲的になることをすすめるのでもある。正義は、エゴイストのための晴れ舞台・理想郷をつくる。


力をもつ者が正義になる(might is right)。

2013年04月06日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-4.力をもつ者が正義になる(might is right)。
 各自の分を守るのが正義だが、どこをもってそのものの分とし正しいこと・法とするかは、厳密には決まっていないことも多い。利害のからむことであれば、無理をしてでも自分の持ち分の増大を意図したくもなる。その分・法は、力関係で決定されるようなことになる。
 はじめは、凶悪な賊あつかいをされていても、これが勝利すれば、正義の官軍になる。正義は、しばしば力ずくで実現される。もちろん、周囲や敵が正義として承認することであるが、相互に承認すれば、それが法となり正義として確定する。国際関係では、なお、正義は力が決める。弱小国が「これが各自の分だ、正義だ、法だ」といってもはじまらない。強大国がこれを決めてごり押しして通用させる。
 逆もある。正義は、力を得やすい。正しいこと・法に合致しておれば、無理がなく、スムースにことは実現する。明治維新では、はじめは反幕府勢力は小さかった。だが、時代のあるべき法・正義を担って次第に大きな力をえて、つぎの時代を支配することになった。正義は、磁石のように諸力を引き寄せて強大となる。
 民主主義は、つい最近まで少数者の邪まな危険思想として否定的にあつかわれていたが、いまは、圧倒的な勢力をえて世界の正義を代表するものとなっている。動植物でも、よそものあつかいの外来種も、その土地に適して勢力をえてくると、その地に有って当然の、正当な存在の資格を得ることになる。


各自の「権利」(法・分)を守ることとしての正義

2013年03月30日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-3. 各自の「権利」(法・分)を守ることとしての正義
 あるべきこと・法(=正しいもの=正義)に合っておれば、自分のしていることは、正義(=正しいこと)になる。だが利害がからむところでは、エゴ・欲を出して、おのれのあるべき分・法を超えて自分の方にと、いわば不正を働きたくなる。本来の自分の持ち分(法)を越えてもと、欲をだす。皆がそうするから、結局は、自分の持ち分・自分の権利(jus=法)を確保することに落ち着く。正義(justitia)は、各自の分・権利(jus)を各自に帰すことだというローマ法での正義の定義となる。
 自分の権利・分を守ることが正義であり、その分を越える越権が悪・不正になるが、自分の分を守れず不正を被る場合も、ここでは悪とみなされる。自分の分を奪われて不正を許していたのでは、情けない劣等存在に堕す。米国で銃をもってでも自分を守ろうというのは、「不正は許さない、権利の侵害は断固排除する!」という、たくましい正義の精神に発する。日本の泣き寝入りのように、不正を被るのを我慢しようというのは、多くの民族では、不正をする者と同様に悪とみなされる。不正・侵害に毅然と対応して権利・分を守ることがあって正義は達成される。権利擁護とともに、義務の堅持も正義となる。義務の義は、道理・正しいこと、正義の義である。やりたい事ではないが、なすべき正しいことが義務である。つらい負担であってもそれを引き受けなくては正義は貫かれない。
 エコロジーの方面で、自然存在に「権利」を帰すことがある。各生物には生きる本来の場・固有の領分があり、その固有の生き様・本分、法(jus権利)があると論じる。その分・権利の維持に、自然自体における正義・正しさを見ることもある。


法のもとでの「平等」としての正義

2013年03月23日 | 節制・勇気と正義のちがい・・

4-2. 法のもとでの「平等」としての正義
 正義は、広義には、正しいことを指す。が、それは、狭義には、利害対立の厳しい世界での、不正・不法を排除した合法・遵法を意味する。さらに、その狭義の利害対立の場の正義のあり方として、古来、平等が、みんなを均しくあつかうことが言われてきた。
 差別・平等は、比較されるもの同士を、えこひいきのある扱いにしたり、これらを無差別に同等にあつかうことである。もし比較されるものに本質的な違いがあるのなら、いずれ「正しい」正義の扱いは、差別扱いをすることになろう。無差別・同等にするのが正義だという根底には、比較されるものがその本性において同等・対等だという了解がある。あるいは、ひとは、利害対立の場において、本来的に、対等に張り合う能力を持ちあわせているということである。ひとは、その尊厳をになう自律理性において同一であるのみか、腕力等の能力においても似通っている(酷似しているから何ごとでも競技・競争になる)。しかも、その想像力をもって相手自身になることができ、相互に均しい存在として了解しあってもいる。
 利害を競う場では、自分の得になるようにと張り合う。みんながそういう振舞いをすると、最終的には、事態をスムースにすすめるには、ひとが本質的に対等・同等な存在なのであれば、みんなが同じように損得をする点でまとめることであろう。利害対立のもとでは平等・対等を正しいこと・正義とするに至る。償いでも等しさが原理となる。「眼には眼を!」の報復律(lex talionis)である。まずは元通りにと均しいもので償う。が、それが不可能なら、同一の価値物を奪い(損害を与えて)、「歯には歯を!」で溜飲を下げ、正義は、同等・平等をもって決着をつける。