お天気がつづく。
昨夜は、モナミ公園でお祭りがあった。
真駒内からレッスンを終えて帰る路上で、花火が夜空に炸裂した。
多くの人で賑わい、屋台も出ていた。
この街に住む人々には、昔ながらの懐かしいお祭りなのだろう・・・。
午前中は、児童図書・絵本の「特別」展示販売をしている、テイセンホールにTOMOKOさんが出かけた、
朝のラジオで、その情報を聞きつけ、場所を確認して行った。
私は、その時間をいただいて、YAMAHAさんに、コーラスの楽譜を調べに行った。
レッスンは午後からの仕事だったので、午前中、街に出れることが嬉しかった。
おばあちゃんは、デイのお祭りで、朝、お迎えのバスが来ていた。
テイセンホールは、テイセンボウルというボーリング場を持つ、華やかだった時代には・さぞ街の人々が集う場所だったのだろう。
小樽の市民ホール、テレビ塔の前にあった札幌市民ホール(今は立て替えられた)と倶知安文化福祉センターと同じ雰囲気を持つ建物だった。
札幌駅の北東側、いわば駅裏にあって、一等地と言えば一等地・・・・・
忘れ去られたかのように、ぽつんと存在していた。
夜中の2:30分ころ、家が揺れた。
ベッドの縁を捕まえて、身構えたけど、揺れはおさまった。
地震で目が覚めたので、ラジオを聞いた。
「明日へのことば」4:00時台に、吹奏楽と共に50年
大阪府立淀川工科高校名誉教諭、丸谷明夫先生のインタヴューがあった。
聞き手の女性ディレクターも言葉少なめ、丸谷先生はどちらかと言えば「ぶっきらぼう」という
近年めずらしいインタヴューだったけど。
私(わたし)的には、丸谷先生の大阪弁が「炸裂」して、布団の中で「そやそや!!」と一人でうなずいていた。
大阪府立淀川工科高校吹奏楽部は、全国コンクールで何度も金賞を受賞している。
創部50周年の記念コンサートを、大阪城ホールで開催した。
1万枚のチケットが、ポスターの刷り上がる前に、売り切れてしまったという伝説が残っている。
3年勝負のアマチュアの吹奏楽団(1年生はラッパの音も出ない)の、レベルを保ち維持し続ける秘密が聞けるのか・・?・・と思ったけど、
丸谷先生の答えは、終止一貫していた。
「子供達の持っている能力を如何に引き出してあげられるか、それに相応しい(子供達が活動しやすい)環境を整えてあげられるか」・・・
「時代はそりゃ、変わった、周りの大人達もすっかり変わった、でも子供達の『本質』は変わってないよ・・・」と先生は言い切る。
あるときから「上手に、審査員の先生に気に入られるように・・・という演奏を止めて・・自分たちの(子供達の)思いをどれだけ伝えられるか?・・・」
という演奏をすることにした。結果は後からついて来た。
大阪府立淀川工科高校吹奏楽部は、20年間続けて、大阪西成愛隣地区(釜ヶ崎)の公園でコンサートを続けている。
当初、苦労は多かったが、そのコンサートで学ぶことが、先生・こどもたち・・あまりに大きいと述べられた。
部員を乗せたバスに「先生!!おるか?・・・」とおっさんが勝手に乗り込んでくる。
「今日、俺が一人で・ソロや・(夜霧よ今夜もありがとう)歌うから・・・ワカッテルな!!!!!・・・伴奏せ~~よ!!」
からはじまった、釜ヶ崎コンサート、音楽の持つ途方も無い「力」に先生も、子供達も「言葉を無くす」
どんな大きな立派なホールで演奏するより、おっちゃん・おばちゃんの表情、反応を直に感じながら演奏することの方が
ぜんぜん「勉強」になる・・・・と丸谷先生は付け加えた。
番組の最後で、創部50周年の記念コンサート(大阪城ホール)アンコールの曲・「星条旗よ永遠なれ」が放送された。
やっぱり・・・涙が止まらなかった。
「なんぼ・うまいこと・吹けよ!!・・と・こどもらにゆうたかてあかん、こどもらに本気で『やるき』を出させな・・・・・」
「・・・・・・・・・・なんぼガミガミゆうたかてあかん」