竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

大津波をくぐった父の手紙

2012-06-06 17:33:03 | 被災地ボランティア
昨日陸前高田で被災して、松戸の長男の家に越して来ていた従兄から、父の二通の手紙が送られてきました。従兄はガラス店をやっていたのですが、津波で奥様を亡くされ、店も自宅も流されてしまいました。高田一中の仮設住宅に一人で住んでいましたが、将来のことを考えて越してきたのです。

陸前高田のかっての街並み
 
父の手紙は若き日、17歳で姉、従兄の母親に宛てたもので、医者になるつもりで一高を受験する直前の手紙です。彼のことを心配している姉に精一杯努力していると書いています。もう一通では姉の長女の病気についても心配しています。その長女は嫁に行った先のお寺は流されてしまいましたが、御本人はお元気なようです。
 
母が亡くなった際に高田の従兄の家に立ち寄って、その手紙を見せてもらいました。大津波で彼の家が流されたと知って、もう手紙は無いものと思っていました。
 
その後彼の家にあった2台の金庫のうち1台が発見され、その中に父の手紙も入っていたのです。その手紙を大切に金庫に入れておいた従兄には感謝の気持ちでいっぱいです。

 
 
父は大正1年生まれ、一高受験には敗れ、医者にはなれなかったものの私立大学(夜学だったとか)を卒業して、故郷の高田実科女学校の国語の教師になりました。そして昭和19年に出征し、そのまま帰らぬ人となりました。その時34歳、今の私の長男の年齢で、あまりにも若い死です。
 
 
震災前の高田高校

陸前高田に行くと何度も高田高校の建物を見る機会があります。建物は昔と変っていても懐かしい場所です。高田に行くことについては、父の代わりに故郷の復興のために何かやりたい、そんな気持ちもあります。

 
大船渡の仮設集会所で、高田高校を出たと言う私より少し年上の女性に会いました。その人のお母さんも前身の高田実科女学校を卒業したとか。今月は長部のほかに竹駒の仮設集会所でかご作りをやりますし、大船渡でもやります。何か昔の情報をつかめるかもしれません。
 
被災地に行くと、人の不幸は背中合わせになっていて、人生何が起きるか分からないことを痛感します。ですから生き残ったもの、今生きているものは、苦しいことも楽しいことも全て、精一杯受け止めて行こうと思います。

手紙以外の写真は「未来へ伝えたい陸前高田」タクミ印刷株式会社刊 からカメラコピーをしたものです。