竹と遊ぼう。伊藤千章の日記、

小平市と掛川市の山村を往復して暮らし、マラソン、草花の写真、竹細工、クラフトテープのかご、紙塑人形の写真があります

被災地の初夏その4 式子内親王の想い人は?

2012-05-29 19:49:23 | エコクラフトの籠編み
早朝マラソンの帰り、城の下の豆腐屋さんで出来立ての豆腐を買い、持って帰って二人の友人と一緒に食べる。この二人はここまごころネットの宿舎で寝袋が隣り合わせていた二人で、いろいろ話をするようになった。
 
一人は京都出身の川勝さんといい、秦の河勝の子孫だと言う。帰化人の秦氏は古代日本に文化的にも技術的にも大きな影響を与えている。一説によれば秦の始皇帝の子孫、あるいは景教(ネストリウス派)を信じ、ユダヤ人の一支族ともいう。
 
 
そんなことを川勝氏が言うので変なことをいう人、と思っていた。でも論旨はかなり一貫していて、同じ帰化人一族の東の漢氏(やまとのあやし)の子孫坂上田村麻呂が蝦夷征伐を成し遂げたので、東北に自分が来てボランティア活動をするのは、先祖の罪滅ぼしのようなものといっていた。

森の中は山吹が盛りです。
 
蝦夷は騎馬戦術と蕨手刀で朝廷の軍を悩ませたが、騎馬戦術といい製刀技術と言い、大和朝廷より進んでいるとしたら、日本海を越えた渤海辺りとの交易を考えざるを得ない。その辺ははっきりした証拠が無いので勝手な想像の域を出ない。でも古代の蝦夷についてはまだ謎がいっぱいある。

コンロンソウ 名前は崑崙だが帰化植物ではないようだ。
 
もう一人も京都出身の佐々木さん、この人は本職の能面打ち師で能楽師に面を収めているという。家は代々の能装束を織る家、長男が後を継いで自分は面打ちを選んだと言う。今どんなに努力してもやはり昔作られた面にはかなわない、それに近づこうといつも努力しているのだと言う。この人は仕事柄から室町文化について造詣が深く、能も茶道も活け花も一休宗純の影響が強いのではないかと言っていた。一休は後小松天皇の御落胤という説があり、室町文化の形成に大きな影響を与えたと言う。
 
能には「定家」という曲がある。定家の父藤原の俊成の歌の弟子式子内親王と定家との恋という伝説にまつわる曲だ。式子内親王の歌が大好きな私としては、忍ぶ恋の相手を定家とする説には前から否定的である。その点で能の伝統どおり定家説を採る佐々木さんとしばらく論じ合った。
 
彼女は若くから斎院として加茂大社の巫女を勤め、その後も一生を独身として過ごしたが、歌は切々とした片思いの歌が多い。それで面影人は定家だとか、最近では法然だという説も出てきた。しいて相手を探さなくても、彼女の歌を歌として鑑賞すればいい。
 
忘れてはうちなげかるう夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を
 
生きてよも明日まで人はつらからじこの夕暮れをとはばとえかし
 
玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることのよわりもぞする
 
しずかなる暁ごとに見渡せばまだ深き夜の夢ぞかなしき
 
内親王と定家の関係を議論する相手に遠野でお目にかかるとは思いがけないことでした。

クサソテツ、若芽はこごみと言って食料になります。
 
この日は大船渡のカフェ隊と一緒に行動しました。朝になって川勝さんもカフェ隊に参加したいというので一緒に行きました。午前中は後の入りの仮設集会所で眼鏡のパリミキさんの眼鏡検診の最中アコーディオンを弾いてみんなで歌を歌いました。
 
午後は越喜来(おきらい)の集会所でかご作り、ここでは26人がかご編みに参加したのでおおわらわ、川勝さんも一緒になって教えていました。3時には終わる予定が4時過ぎまでかかりましたが、忙しければ忙しいほど充実感もまします。
 
川勝さんと佐々木さんとはこれでお別れ、まさに一期一会です。
また大槌カフェ隊のやまちゃんやなおちゃんとも故郷に帰るというのでお別れ、お二人には10月以来長らくお世話になりました。本当にありがとう。