ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第394回)

2022-03-14 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(7)ルーマニア革命

〈7‐3〉革命勃発から大統領夫妻処刑への力学
 1989年のルーマニア革命は、それまで強固に築かれていたはずのチャウシェスク一族独裁体制がわずか一週間足らずで崩壊し、大統領夫妻の処刑に至るという突発的なプロセスを辿り、あたかも休火山が突然破壊的大噴火を起こしたかのような力学を見せた点でも特異的である。
 ルーマニアでは思想・情報統制が東欧社会主義圏でも特段に強力で、ベルリンの壁の打壊も一切報道されず、少なくとも89年12月(以下、断りない限り89年12月の出来事)後半まで、革命につながる動きは見られなかった。
 そうした中、革命の端緒となるのは首都ブカレストではなく、89年12月に西部の都市ティミショアラで発生した民衆蜂起であった。この地方は歴史的に少数派ハンガリー系住民が多いが、政権がハンガリー系人権活動家の牧師を弾圧したことに抗議する集会が大規模なデモに拡大し、16日には政治警察セクリターテの治安部隊と衝突、多数の死傷者を出した。
 しかし、政権側はこの時点では事態掌握に自信を持っており、チャウシェスク大統領は18日から20日までイランを外遊する余裕ぶりであった。しかし、情報統制にもかかわらず、ベルリンの壁やティミショアラの出来事は西側のラジオを通じて伝わっており、首都でも21日以降、抗議デモが発生する。
 21日には、政権側が首都の共産党本部前で10万人動員を称する官製の政権支持集会を開催したが、これは逆効果的な誤算となる。集会は中途から抗議集会と化し、チャウシェスク大統領の演説が妨害される事態に発展したからである。言わば、政権が官製集会に市民を動員したばかりに、かえって民衆の凝集性を高め、革命の導火線を用意したのである。
 他方、革命端緒のティミショアラでは18日以降、労働者らがゼネストに突入、21日までに革命組織が立ち上げられ、軍や共産党を排除して事実上の革命解放区を立ち上げていた。
 ここに至り、ようやく危機感を抱いたチャウシェスクはワシーリ・ミリャ国防大臣に反体制抗議活動の武力鎮圧を命じるが、大臣はこれを拒否した直後に死亡した。拳銃自殺と発表されたが、経緯から政権による暗殺説も流れ、以後、軍部が政権から離反していく。これが政権にとって第二の誤算であった。
 軍部の離反により政権崩壊を予期した大統領夫妻は22日、首都から軍用ヘリコプターで脱出を試みるが、操縦士の偽計により着陸させられた末に、陸路での逃亡中、通報を受けた軍により拘束された。
 大統領の逃亡を受けて、革命派が救国戦線評議会(以下、救国戦線)の結成を発表した。これは事実上の革命政権であるが、その中心メンバーは共産党非主流派であった。議長に就任したイオン・イリエスクもチャウシェスク側近として台頭、後継候補と目されながら、彼を警戒したチャウシェスクにより党中央から排除され、監視下にあった人物である。
 この後、チャウシェスク夫妻にあくまでも忠誠を誓うセクリターテ部隊と革命派・国軍の間で25日にかけて激しい市街戦となった。その間の死者は最大推計で約1300人超とされるが、この事実上の内戦状態に至った経緯には未解明の点が残る。
 そうした中、救国戦線は25日、チャウシェスク夫妻を拘束中の国軍基地で特別軍法会議に起訴した。その結果、夫妻はジェノサイドなどの罪で有罪・死刑判決を受け、即日銃殺刑に処せられた。これは明らかに結論先取りの略式処刑であったが、セクリターテ部隊の夫妻救出作戦を阻止するための緊急措置であり、かつてロシア十月革命時に廃皇帝一家を略式処刑したボリシェヴィキ政権の踏襲であった。
 こうして、ルーマニア革命は独裁者夫妻が処刑されるというまさにロシア革命以来の古典的とも言える流血革命に発展することになった。このような経緯を辿った革命の常として、革命政権自身が抑圧的な体制と化することが懸念されたが、それは現実のものとなる。

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近代革命の社会力学(連載補遺8)

2020-11-29 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(4)「軍事社会主義」とその自壊
 ボリビア第一次社会主義革命は軍部内の中堅将校が主導するクーデターに外部の労組勢力及び新興の社会主義政党である統一社会主義者党が相乗りする形で、革命に発展したものである。
 そのため、およそ3年に及んだ革命の間、何度か改造された政権は軍人と労組幹部、政党人の軍民連合政権の形態を取っていたが、主導権は軍人にあり、軍人主導で社会主義的な施策が展開されたため、「軍事社会主義」と命名された。
 その点、統一社会主義者党は復員軍人団などからも支持されていたものの、革命後も明確な形で支配政党となることはなく、幹部党員が入閣はしたものの、革命政権の一翼に関わったにすぎなかった。
 革命指導者は革命後、最初の正式な大統領に就いたダビド・トロ大佐と革命直後に暫定大統領となっていたヘルマン・ブッシュ中佐の二人であるが、チャコ戦争の英雄でもあったブッシュ大統領のカリスマ性が勝っていた。
 約3年に及んだ革命はトロ政権期と続くブッシュ政権期とに二分されるが、1年余りで終わったトロ政権期の政策で中心を成したのは、米系資本スタンダード・オイル社の国有化である。
 この国有化は国民の支持を得たが、妥協的なトロは間もなく、より急進的なブッシュと不和に陥る。その結果、1937年7月、ブッシュの再クーデターによりトロは解任され、チリへ追放された。
 こうして、満を持して正式の大統領となった30代のブッシュ大統領はその武勲や容姿からもカリスマ性は充分だったものの、政治力ではトロに劣っていた。そのため、政権内外での軋轢が大きく、長期政権は望めなかった。
 それでも、ブッシュ政権期には、1938年の総選挙を経て招集された国民会議で新憲法が採択されるという重要な成果を得た。この憲法はボリビア史上初めて労働者の権利や社会保障、さらには先住民の権利を保障する画期的な憲法であった。
 しかし、ブッシュには政治調整能力が欠けていたうえ、「軍事社会主義」では政策展開上の核となる政治勢力が定まらず、革命に相乗りしていた左派勢力も強力な指導者を欠き分裂していき、政策の円滑な展開は困難であった。
 苛立ったブッシュは1939年4月、自ら「独裁者」を宣言し、国民会議を停止したうえ、大統領令を通じて政策を展開する権威主義に転換した。この「独裁」はいっとき成功し、労働法の制定のほか、鉱山貨幣のようなユニークな政策も実現された。
 鉱山貨幣とは、基幹産業である錫の輸出で獲得された外国為替をすべて中央銀行に納付させたうえ、必要な外貨額と株主への配当に充てるため最大5パーセントを還付し、残余は1ポンド‎‎当たり141ボリビアーノの‎‎交換レートで譲渡するというもので、後の第二次社会主義革命で実施された鉱山会社の国有化には進まないまでも、錫産業の収益を国が取得する初の試みであった。
 とはいえ、ブッシュの独裁に対する批判は強まり、彼は次第に追い詰められていく。その結果、1939年8月、ブッシュは拳銃自殺を遂げた。暗殺説も取り沙汰されたが、公式には自殺で確定している。
 こうして、「軍事社会主義」はブッシュの死により、唐突に終了することとなった。彼を継承できる軍人は他におらず、また分裂した社会主義諸政党も革命を継承するだけの力量を持たなかったからである。個人のカリスマ性に頼った革命の自壊現象と言える。
 この後、1940年代、軍人出自のグアルベルト・ビジャロエルの政権時代に、いっとき社会主義革命が復活するかに見えたこともあったが、全体として1952年の第二次社会主義革命までは保守回帰の時代となった。

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戦後ファシズム史(連載第8回)

2015-11-27 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

7:ブラジルの場合
 戦前ファシズムは圧倒的に欧州を本場としており、非欧州地域には―その多くが欧州列強の植民地だったこともあり―、広がっていなかったが、独立国としての歴史があり、欧州系移民も多い中南米諸国には、ファシズムの潮流が及んでいた。中でも、かなり明瞭な形でファシズムが現われたのが、南米ブラジルである。
 ブラジルのファシズムは、地主階級中心の寡頭政治―第一共和政―が限界をさらけ出していた時期に、ジェトゥリオ・ヴァルガスによってもたらされた。法律家出身のヴァルガスは専門知識人に出自した点では、旧宗主国ポルトガルのファシズム指導者サラザールとも共通の要素があり、彼が樹立したファッショ体制もサラザールのそれと同様に「新国家体制」と呼ばれた。
 ただ、両者には相違点もある。ヴァルガスは1930年の大統領選挙に出馬して敗れた直後、支持者や一部軍人の支援を受けてクーデターに成功し、臨時軍事政権から権力を委譲される形で大統領に就任した。この暫定政権の時期にはまだファシズムの傾向は希薄だったが、32年の立憲派による反政府蜂起を武力鎮圧すると、ヴァルガスは34年にイタリア・ファシズムの影響を受けた新憲法を制定したうえ、37年には予定されていた大統領選挙を強権発動により中止させ、独裁体制を強化した。
 ヴァルガスのファシズムは、国粋主義と反共主義の一方で、労働者の権利保護も重視する一部左派色を帯びたもので、「貧者の父」という異名すら取る両義的な側面があった。この点では、次の第二部で取り上げるアルゼンチンのペロン政権との類似性が認められる。
 ただし、ヴァルガスは政党を結成することはなく、思想的には近かったファシスト政党を禁圧すらしているため、彼の体制は擬似ファシズムとみる余地もあるが、ヴァルガス自身は党派政治家の出身であり、ポピュリストとして大衆動員的な政治手法を追求した点からすると、ファシスト党を介さない不真正ファシズムの特徴を持つと言える。
 第二次大戦中のヴァルガス政権は、当初ナチスドイツとの協調姿勢を示したが、大戦後半期になると、ブラジルに善隣政策で接近してきたアメリカと協調するようになり、事実上連合国側に寝返った。
 こうしてポルトガルのサラザール政権同様、連合国側に受け入れられたヴァルガス体制は戦後も延命されるはずであったが、そうはならなかった。大戦終結直後の45年10月、軍事クーデターによりヴァルガスは辞任を強いられ、ブラジル・ファシズムは終焉した。
 このようなあっけない幕切れとなった直接の理由として、ヴァルガスが軍部を掌握し切れていなかったことがあろう。その点、ポルトガルのサラザールの場合、自身は首相にとどまりつつ、軍の有力者を名目的な大統領にすえて軍部を懐柔していたが、ブラジルには首相制度がなく、ヴァルガス自身が任期を越えて大統領に居座っていたのだった。
 またヴァルガスの国家主導による経済成長政策の果実を得た中産階級の間から、民主化を求める声が高まり、ヴァルガス自身も政権末期には一定の民主化を進めていたことも、自らの体制の命脈を縮める結果となった。
 こうして46年以降、ブラジルは第二共和制下で民主化のプロセスを開始するが、その過程で、ヴァルガスは中道左派の労働党候補として出馬した51年の大統領選挙に勝利し、今度は民主的な手段で返り咲きを果たした。戦前ファシズムの指導者が戦後に民選大統領として復帰するのは極めて例外的である。
 ブラジル有権者はヴァルガス自身にヴァルガス体制の清算を委ねたとも言える結果だったが、そのような芸当はやはり困難だったと見え、54年に起きたヴァルガスの政敵に対する暗殺未遂事件を契機に軍部から辞任要求を突きつけられ、再びクーデターの危機が迫る中、ヴァルガスは拳銃自殺を遂げる。
 こうして、またしてもヴァルガス政権は不正常な形で突如幕切れしたのだが、ヴァルガスの影響は死後も続いた。以後は、ヴァルガスの「新国家体制」の両義性を反映して、中道保守の社会民主党と中道左派の労働党が第二共和制下のヴァルガス派有力政党として立ち現われるのである。

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