ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第54回)

2023-03-21 | 〆近代科学の政治経済史

十 宇宙探求から宇宙開発へ(続き)

宇宙開発競争の展開①
 ロケットによる宇宙探査で先行したのは、ナチス科学者を大量に引き抜いたアメリカではなく、ほぼ独自に研究開発を進めていたソ連であった。ソ連は1957年10月、人工衛星スプートニク1号を搭載したロケットの打ち上げに成功した。
 これを契機として、以後、ソ連・アメリカを軸とする抜きつ抜かれつの国策的な宇宙開発競争の時代が始まったと理解されている。ちなみに、この「宇宙開発」という術語はほぼ日本特有のもので、英語では「宇宙探査(space exploration)」とするのが通例である。
 しかし、スプートニク以後の宇宙をめぐる冷戦下の東西体制間競争は、単に学術的な関心からの「宇宙探査」という以上に、想定上の戦場を宇宙空間まで拡大するという軍事目的を視野に収めた「宇宙開発」と表現するほうが実態に合っているだろう。
 そうした宇宙開発競争の時代を大きく区分すれば、1957年のスプートニクの成功に始まり、1969年のアメリカによる有人宇宙船による月面着陸の成功という画期を境に、第一期と第二期に分けることができる。
 月面着陸以前の第一期は、ソ連が先行していた。その契機は如上スプートニクの打ち上げ成功であったが、これは「スプートニク計画」と銘打たれたソ連の開発研究政策の成果でもあった。
 この計画の技術的なベースとなったのはR-7と呼ばれるロケットで、これは当初、世界初の大陸間弾道ミサイルとして開発された兵器そのものであった。その開発初期には連行されたドイツ人科学者も関与したが、戦前からソ連の有力なロケット工学者であったセルゲイ・コロリョフが中心的な開発者となった。
 R-7は核弾頭も搭載できるミサイル兵器であると同時に、人工衛星を搭載すれば宇宙ロケットともなる軍民両用の便利な飛翔体であったので、人工衛星スプートニクの打ち上げに利用されたのであった。
 スプートニクの成功に続き、ソ連は有人宇宙飛行の実現に取り組んだ結果、まずは動物を宇宙船に搭乗させる実験を繰り返し、1960年のスプートニク5号で二匹の犬を宇宙へ送り帰還させることに成功した。
 これを受け、1961年には空軍士官ユーリー・ガガーリンが搭乗する宇宙船ボストーク1号の打ち上げと世界初の有人宇宙飛行を無事に成功させた。さらに、1965年には複数人が搭乗可能なボスホート2号の乗員が初の宇宙遊泳を成功させた。
 この時期のソ連はその全史の中でも最盛期に当たり、安定した体制の下、政治と科学を一体化し、国家総力を挙げた科学研究開発を推進した結果が宇宙開発での立て続く成功を導いたと言える。一方で、そうした国費の偏重的投入はソ連の衰退の始まりでもあった。

宇宙開発競争の展開②
 一方、宇宙開発競争第一期のアメリカは精彩を欠いていた。実際、1950年代半ばにはアメリカでも人工衛星打ち上げ計画が始動していたが、予算の問題からいったんは凍結され、進捗していなかった。
 実はそうした経緯を知ったソ連のコロリョフが自国の人工衛星打ち上げ計画を強く説いたことがスプートニクの成功につながったのであった。アメリカ側もソ連のスプートニクの成功に刺激され、その直後、1957年12月に初の人工衛星打ち上げを企画したが、無残な失敗に終わった。
「ヴァンガード計画」と銘打たれたアメリカによる一連の人工衛星打ち上げは以後、失敗の連続であり、この分野におけるアメリカの技術的な遅れが露呈された。冷戦時代における体制間競争でアメリカが最も屈辱を味わったのが、この時期である。
 「ヴァンガード計画」は海軍主導であったが、1958年2月には陸軍主導でエクスプローラー1号の打ち上げに成功したものの、スプートニクの二番煎じの観は否めなかった。焦慮したアメリカは1958年7月、宇宙開発研究の拠点として国家航空宇宙機構(NASA)を立ち上げた。
 この組織は連邦政府直轄機関であり、軍とは切り離された文民型の研究開発機関とした点でも画期的であり、兵器開発も担当する国営企業体である設計局(OKB)主導かつ徹底した秘密主義に基づいていたソ連の研究開発態勢とは好対照を成した。
 NASAにとって最初の重要な課題はソ連に先駆けて有人宇宙飛行を成功させることであり、そのためにいくつかの計画が立ち上がったが、結局のところ、ソ連に先を越される結果に終わった。
 そうした中、NASAは「アポロ計画」と銘打って、月への有人飛行を実現させるという壮大な計画に進んだ。これは当初SFまがいの遠大な企画とみなされ、進捗しなかったが、1961年に時のケネディ大統領が議会演説で「今後十年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という目標を明示したことで、にわかに現実の国策として定着する。
 こうした政治の後押しを受けつつ、1967年の記念すべきアポロ1号の火災死亡事故という犠牲を乗り越え、1969年11月、アポロ11号が有人での月面着陸を成功させた。ケネディー演説の目標十年より早い成功である。
 この成功は宇宙開発競争の主導権をアメリカが奪う契機となり、以後、国力の衰退とともに宇宙開発でも次第に精彩を欠いていくソ連を後目に、アメリカ主導による宇宙開発競争第二期が始まる。


コメント    この記事についてブログを書く
« 近代科学の政治経済史(連載... | トップ | 近代科学の政治経済史(連載... »

コメントを投稿