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近代科学の政治経済史(連載第40回)

2023-01-24 | 〆近代科学の政治経済史

八 科学と政治の一体化(続き)

ルイセンコ遺伝学教義と迫害
 ソヴィエト科学の政治的イデオロギー性を最も如実に示す悪名高い事例は、トロフィム・ルイセンコが提唱した独自の疑似科学的な遺伝学説とその体制教義化、それを教条とする科学者の大量迫害事象であった。
 ウクライナ農民の出自であったルイセンコは元来、園芸や栽培技術を専門とする農学者としてスタートしたが、その後、遺伝学者に転じると、遺伝学のスタンダードとなっていたメンデルの遺伝子理論を否定し、ラマルクの旧進化論に基づく獲得形質遺伝説を提唱するに至った。
 ラマルク進化論もダーウィンの自然選択説に基づく新進化論によって克服されていたはずであるが、ルイセンコは自然選択説をも否定し、ラマルクの旧進化論に回帰しようとしたのであった。
 これは理論的に考察した結果というよりは、ルイセンコが農学者時代に低温によるいわゆる春化処理の技法を研究する中で、春まき小麦が秋まき小麦に、逆に秋まき小麦が春まき小麦に転化する現象を獲得形質の遺伝によるものと即断的に誤認したことによっていた。
 従って、ルイセンコ遺伝学説は科学学説と呼び得るだけの検証可能な根拠を持っていなかったにもかかわらず、ソ連では時のスターリン共産党指導部の強い支持を受け、ルイセンコ学説が一種の体制教義の地位を獲得したのである。
 このように、政治とは直接関係のない一介の生物学説に党指導部が入れ込んだ理由は必ずしも明らかでないが、一つにはルイセンコ自身が共産党員としてロシア革命後の政治的激動を巧みに乗り切り、党指導部ともパイプを築いたある種の政治力によるところが大きいようである。
 他方、スターリン指導部としても、その目玉政策であった農業集団化とその下での農業生産力の増強という政策課題を遂行するうえで、生物学者というより農学者としての知見を持つルイセンコは有用な存在だったことが大きい。
 実際、ルイセンコの正当な業績は先人のイヴァン・ミチューリンが開発した育種法であるヤロビ法を継承して春化処理の技法を確立したことにあり、これはソ連を超えて中国や日本の農法にも影響を及ぼした。
 しかし、彼の遺伝学説は当時のソ連国内でも異論が多く、論争を巻き起こしたが、ルイセンコ学説を信奉するスターリン指導部はルイセンコ学説に反対する学説、とりわけメンデル遺伝学を「観念論」「ブルジョワ思想」と断じ、反ルイセンコ派の科学者を投獄するなど激しく迫害した。
 その最も象徴的な犠牲者は植物学者・遺伝学者のニコライ・ヴァヴィロフであった。彼は遺伝的多様性理論に基づく植物の起源論で知られる科学者であったが、ルイセンコ学派から攻撃を受け、でっち上げの政治犯罪の容疑で逮捕、死刑判決を受け、減刑されたものの獄死した。
 一方、ルイセンコはソ連科学アカデミー遺伝学研究所長を1940年から1965年まで勤続し、スターリン存命中はもちろん、スターリン主義を否定したフルシチョフ指導部からも支持を得て、ソ連科学界の最重鎮として君臨し続けた。
 こうして、ルイセンコ学説はソ連体制における科学教義として一世を風靡したが、その実態は検証されない疑似科学であり、これはあたかもナチス体制下の疑似科学教義であったアーリア人学説に相当する政治的な体制教義にすぎないものであった。
 そのため、1964年にフルシチョフが党内政変で失権したのを機にルイセンコ学説も勢力を失い、翌年にはルイセンコも遺伝学研究所長を解任され、1976年に死去するまで晩年は不遇をかこつこととなった。


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