ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第392回)

2022-03-10 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(7)ルーマニア革命

〈7‐1〉一族独裁体制の確立
 1989年に始まる連続革命の中で、ルーマニアは唯一、独裁者夫妻が革命政権によって処刑されるという古典的な流血革命の経過を辿っており、その特異性が注目された。ルーマニア革命だけがこのようなプロセスを見せたことには、それなりの理由があった。
 第二次大戦後のルーマニアも周辺東欧諸国の例に漏れず、ソ連の占領を受けた後、ソ連の傀儡的な社会主義勢力であるルーマニア労働者党が政権を握り、一党支配体制に入ったが、1965年に当時は少壮党幹部であったニコラエ・チャウシェスクが前任者の死去を受けて党第一書記に就いたところから大きな転機を迎える。
 チャウシェスクは労働者党を元の党名である共産党に復旧したうえ、67年からは元首格の国家評議会議長を兼ね、党国家の実権を掌握すると、ソ連を盟主とするワルシャワ条約機構に加盟しつつ、ソ連から距離を置き、西側と幅広く交流したほか、ソ連と対立していた中国にも接近するなど独自外交路線を選択した。
 しかし、このことは同時期のハンガリーのような統制緩和を意味しておらず、むしろ国内的には個人独裁を強化する路線が明瞭になった。当時のソ連・東欧社会主義圏では集団指導制を重視し、何らかの会議体を国家最高機関とする例が多い中、チャウシェスクは1974年に強大な権限を持つ大統領職を新設し、自ら就任した。
 この新体制下で、チャウシェスクは、ソ連よりも毛沢東時代の中国や金日成時代の北朝鮮のようなアジアの個人崇拝型社会主義体制をモデルとして自らの権威を高めるとともに、エレナ夫人を党・政府の要職に起用し、事実上の序列ナンバー2に押し上げたうえ、子息ニク(次男)を世襲の後継候補として「育成」するなど、欧州社会主義圏では特異な一族独裁体制を固めていった。
 こうした体制を防護するために、秘密政治警察兼対外諜報機関である国家保安部(通称セクリターテ)による抑圧監視を徹底的に強化した。この機関は80年代の最盛期には当時2300万人程度の人口で1万人を超える要員を抱えるまでに膨張し、体制というよりチャウシェスク一族に対して絶対的な忠誠を誓う保安機関に仕立てられたのである。
 また、思想統制も強化され、それは科学分野にも及んだ。その点では自身ほぼ独学に近い「化学者」で「発明家」でもあったエレナ夫人の影響が強く、エレナ自身が国家科学技術評議会議長として科学界の統制の中心に立っていた。
 こうして、1980年代までにアジア的な性格を帯びた個人崇拝型社会主義体制が確立され、ソ連圏でも独自の立場を占めるに至っていたルーマニアでは、アジアにおける同種体制とともに、ルーマニアを連続革命の潮流から免れさせる可能性を持っていた。

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近代革命の社会力学(連載第391回)

2022-03-08 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(6)ブルガリア革命

〈6‐2〉環境市民運動から革命へ
 前回見たように、35年にわたり続いてきたジフコフ体制はソ連側のたびたびの指導部交代にも巧みに適応して生き延びてきたのであったが、1980年代半ばからのゴルバチョフ指導部に対しても対外的にはその改革路線を支持しつつ、対内的には改革を拒否するという内外二重政策で切り抜けようとしていた。
 しかし、近隣諸国で革命のうねりが隆起する中、1989年10月に転機が訪れた。同年4月に結成されていた環境市民団体・エコグラスノストが同年10月に首都ソフィアで開催された全欧安全保障協力会議の環境サミットに招待されたのを機に活動を活発化させると、これを危険団体とみなしたジフコフは政治警察を動員して暴力的な弾圧に出た。
 こうした強権的対応が広範な批判を呼ぶと、共産党内の改革派が決起して、翌11月の政治局会議の席上、ジフコフ書記長の辞任を迫り、これを実現させた。続いて、人民議会もジフコフが兼任してきた国家評議会議長(元首格)からの解任を決定した。これにより、35年に及んだジフコフ体制があっけなく終焉する。
 この党内政変を主導したのは、長年外相(兼党政治局員)を務めてきたペタル・ムラデノフであった。彼は長くジフコフ側近であったが、トルコ系迫害政策を機にジフコフ離れし、当時は改革派に転じており、エコグラスノストを招待したのも外相としてのムラデノフであった。
 こうしてジフコフ後任の共産党書記長兼国家評議会議長に納まったムラデノフであったが、彼の「改革」構想は共産党支配体制の枠内での改革であり、ソ連のゴルバチョフ改革をモデルとしたものにとどまっていた。
 ここに至り、それまで静観していた民衆が動き出し、1989年12月にはより根本的な民主化を要求する抗議デモが隆起する。想定以上のデモの拡大に恐慌を来したムラデノフが軍を動員して武力鎮圧する方針を示唆していたことが後日発覚し、政治生命を失う羽目になる。
 結局、武力鎮圧は行われず、ムラデノフは共産党支配体制の放棄と複数政党制による自由選挙の実施に向けた憲法改正を決定せざるを得なくなった。明けて1990年4月、ブルガリア共産党はマルクス‐レーニン主義の放棄とブルガリア社会党への党名変更を決定、ここに社会主義体制は事実上終焉することとなった。
 同年6月に制憲議会選挙として行われた複数政党による自由選挙では、共産党時代の組織力を生かして善戦した社会党が過半数を獲得し、第一党となった。ムラデノフは4月に新設された大統領に就任していたが、不正選挙を訴えるデモが隆起する中、如上の武力鎮圧発言が発覚し、7月に辞職に追い込まれた。
 さらに、新憲法制定後の1991年に実施された初の正式な国民議会選挙では、如上のエコグラスノストなど非共産系党派が合同して結党された民主勢力同盟が社会党に代わり第一党として政権に就き、ここに旧共産党体制は完全に終焉した。
 こうして完了したブルガリア革命は、東ドイツやチェコスロヴァキアの革命の影に隠れて目立たない存在であったが、環境市民運動に始まった革命は反体制派との協議機関も設置されることなく終始平和裏に進行するという稀有のプロセスを示しており、もう一つの「ビロード革命」と言える事例を提供している。

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近代革命の社会力学(連載第390回)

2022-03-07 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(6)ブルガリア革命

〈6‐1〉長期指導部とトルコ系迫害政策
 連続革命が始まった1989年の時点で、共産党の一党支配体制下にあったブルガリアでは革命が勃発したどの国よりも長い指導体制が続いていた。すなわち、1954年以来、35年にわたりトドル・ジフコフ党書記長の時代であった。
 ジフコフは対独レジスタンスを経て、若くして共産党指導部入りし、ソ連のスターリン死後の政治情勢の変化の中、40代で書記長に選出された。その後は、ソ連側のフルシチョフ指導部、さらにフルシチョフ失権後のブレジネフ指導部、80年代半ばに現れたゴルバチョフ改革指導部と、ソ連側のたび重なる指導部交代を生き抜いてきた東欧社会主義圏の生き字引であった。
 ジフコフの長期体制は対外的に徹底した親ソ路線、対内的にはある程度緩和された抑圧管理の組み合わせのバランスによって支えられていた。そうしたある種の修正主義的な路線に対しては1960年代に教条派がクーデターを企てたが、これを未然に防ぐと、以後はジフコフの権力が確立されていった。
 長いジフコフ体制下では、元来圧倒的な農業国であったブルガリアの工業化が志向され、ソ連に倣った中央計画経済の手法で短期間に一定の工業化を推進したが、80年代以降は、周辺の同種体制と同様、中央計画経済の限界が見え始めていた。
 その対策としての限定的な経済自由化や外資導入などの改革策も周辺諸国と大差なかったが、ブルガリアの特異性は、オスマントルコの支配下にあった時代以来、ブルガリアに移住・定住してきたトルコ系住民への迫害政策を開始したことである。その背景として、経済的な行き詰まりをブルガリア民族至上主義の扇動によって糊塗しようとしたことが大きい。
 迫害政策の柱は、トルコ系住民の氏名をブルガリア人風に改名させるという一種の強制同化政策であった。これに対して反発を強めたトルコ系住民は抗議デモを組織して激しく抵抗したため、改名政策はわずか一か月で撤回されたものの、「再生プロセス」と名付けられたブルガリア民族至上政策は継続されたため、トルコ系住民も過激化し、テロ攻撃で対抗するようになった。
 これにより、それまで安定していたジフコフ体制が一気に動揺を来たした。そこで、ジフコフ指導部は89年には、トルコ系住民の自発的なトルコ移住を容認するという形で事実上の追放政策を開始した。その結果、およそ36万人を越すトルコ系住民がブルガリアを出国したが、これは当時の人口約900万人の国としては大規模な労働力の喪失につながった。
 こうして、連続革命の年となった1989年のブルガリアは、国際的にも非難され、それまで忠臣で固めていた足元の党内にも反発を引き起こした民族差別政策によって、政治的にも経済的にも自ら墓穴を掘る状況に置かれていたのであった。

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NATO解散こそ究極の解

2022-03-06 | 時評

ロシアのウクライナ侵攻作戦が長期化の様相を見せる中、改めてNATO(北大西洋条約機構)の存在理由が問われている。

そもそも、今回の侵攻作戦自体、NATOが北大西洋から遠く離れた東欧圏まで浸食的に拡大してきたことに対するロシア側の危機感を背景としている。NATOの敵方同盟で旧ソ連を盟主としたワルシャワ条約機構の旧加盟諸国も軒並みNATO入りしていく中、既に加盟済みのバルト三国に加え、ウクライナのような旧ソ連邦構成国にまでNATOが手を伸ばし、ウクライナもそれに乗ろうとしていることへのロシア側からの反作用である。

また、そうした拡大NATOがもたらす安全保障上の脅威は、プーチンのような「強力」な指導者の存在をロシア国民が容認・支持し、ひいてはロシア史上でも有数の長期政権化する可能性の担保となっているという国内的な政治効果も生じさせている。

一方、NATOは集団的安保同盟であるはずのところ、目下、ロシアの侵攻に対して軍事的に反応しようとする気配はなく、かえってウクライナ側が要望するロシア空軍機の飛行禁止区域の設定を拒否するなど、交戦を回避する姿勢が強い。ウクライナは条約未加盟であるから集団的自衛権発動の要件は満たさないとはいえ、NATOのあり方が鋭く問われるだろう。

もちろん、ロシアとNATO軍の間での「欧州大戦」に発展することが最適の解決法とは言えないので、一触即発の飛行禁止区域の設定を求め、NATOを戦争に巻き込もうとするかのようなウクライナ側の策にも疑問の余地はある。

さしあたっては、ウクライナがNATO加盟の方針を撤回し、中立宣言をすればロシアの侵攻作戦を中止できる望みはあり、戦争に伴う人道危機の拡大を当面短期的に防ぐにはその方策しかないであろうが、それでは本質的・恒久的な解決にはならない。

より究極的な解決法は、冷戦時代の遺物であるNATOの解散である。そもそも相方のワルシャワ条約機構が消滅した以上、NATOの存在理由も失効したはずであるのに未だに残されているどころか、2000年代以降いっそう拡大されてきたのはなぜか。

それはプーチン政権下で再興し始めたロシアへの包囲網であるとともに、そうした対ロシア防備を超えた「NATO帝国」―その帝冠を被るのは、むろんアメリカ―の構築という新たな米欧諸国の覇権戦略が隠されているからにほかなるまい。経済的にはいまだ成長途上であるウクライナを含む東欧の旧社会主義圏は米欧資本主義諸国にとっては潜在魅力的な市場の草刈場であるから、安保同盟の餌を広くまきたいわけであろう。

ということから、NATOの解散など論外とされるであろうが、そうであればこそ、それがウクライナ危機を終わらせる究極の解となるのである。


[蛇足1]
NATOの解散により安全保障上の脅威そのものが丸ごと消失すれば、強権的なプーチン体制の存在理由も薄れ、かえって民主化を求めるロシア民衆の革命により打倒される可能性さえも生じてくるだろう。

[蛇足2]
よりいっそう究極的には、ロシアをも包摂した最広域の「汎ヨーロッパ‐シベリア域圏」を形成できれば、欧州の恒久平和が確立するであろうが、これは拙見である「世界共同体」の論域に入るので、時評にはふさわしくなかろう。

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比較:影の警察国家(連載第56回)

2022-03-05 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

2‐3:連邦憲法擁護庁と連邦諜報庁

 連邦憲法擁護庁(Bundesamt für Verfassungsschutz:BfV)は、連邦レベルで反憲法的とみなされる政治的社会的活動を監視し、無力化することを目的とする国内保安機関である。
 連邦警察や連邦刑事庁とともに連邦内務省の管轄下にあるが、身柄拘束や家宅捜索などの強制権限はないため、機能的な意味での政治警察である点、日本の公安調査庁と近似する。
 この機関は元来、旧西ドイツで、旧東ドイツの体制教義であったマルクス‐レーニン主義の浸透を防圧するべく設立された機関であるため、共産党や共産主義団体の監視が本務とされてきた。ところが、記念すべき初代長官オットー・ヨーン自身が東ドイツに一時亡命するというスキャンダラスな出発をしている(当人は「誘拐」を主張)
 この機関は「憲法擁護」という冠名とともに、しばしば旧西ドイツがナチズムを克服するモットーとし、現行の統一ドイツにも継承されている「闘う民主主義」、すなわちドイツ民主主義は民主主義を破壊する者とは闘い、これを排撃するという勇敢なイデオロギーを象徴する機関として美化されることもある。
 しかし、冷戦期には共産党及び共産主義的とみなされた諸団体の抑圧を主目的として活動してきた点では、実態として、イギリスのMI5をはじめ、西側諸国における国内保安機関と変わりないものである。そのため、その活動の圧倒的重心は共産党及び共産主義的とみなされた諸団体の監視と無力化とに置かれてきた。
 そうした活動の偏向性は冷戦終結と東西ドイツ統一後に役割の転換が進められてきた中でも変わりなく、2012年、BfVがネオナチ地下組織による連続殺人事件に関する関連資料を破棄していたことが発覚し、長官が辞任するという新たな不祥事からも窺える。
 冷戦終結以後、近年はイスラーム過激主義団体や宗教カルト、さらには刑事犯罪組織にまでBfVの監視対象はかえって広がっており、各州におけるカウンターパートとなる州憲法擁護機関の存在と相まって、連邦と州にまたがる機能的な政治警察網が形成されるとともに、連邦刑事庁など刑事警察機関との連携関係も強化され、影の警察国家化を促進している。

 なお、連邦諜報庁(Bundesnachrichtendienst:BND)は本来、アメリカのCIAやイギリスのMI6をカウンターパートとする対外的な諜報機関であり、連邦首相府に属する連邦政府直轄機関である。
 その本務は警察ではないが、やはり冷戦終結・東西ドイツ統一後の役割転換の中で、国際テロリズムに対する諜報という治安任務が加わり、機能的な公安警察化を来たしている点では、諸国のカウンターパートと同様の傾向にある。

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比較:影の警察国家(連載第55回)

2022-03-04 | 〆比較:影の警察国家

Ⅳ ドイツ―分権型二元警察国家

2‐2:連邦刑事庁と関税刑事庁

 ドイツの連邦警察は刑事警察機能を持たないため、連邦の刑事警察に相当するのは、連邦刑事庁(Bundeskriminalamt:BKA)である。警察を称さず、共に連邦内務省の管轄下にある連邦警察とは別立ての組織であり、形態や任務としてはアメリカの連邦捜査庁(FBI)と近似している。
 しかし、3万人を超す人員を擁し、全国に支局網をもって展開するFBIに比べ、BKAの要員は7000人程度、その任務も複数の州にまたがる広域事件に対する州警察や州レベルのカウンターパートである州刑事庁との合同捜査が中心で、独自捜査案件はテロリズムやスパイ、複雑な汚職・経済犯罪などに限局されている。
 その他、連邦の要人警護は連邦警察ではなく、BKAが担当しており、その限りでは純粋の刑事警察を超えた警備警察としての機能も限定的に併せ持っている。
 さらに、近年はテロリズムやサイバー犯罪の取締りのセンター的な任務が増しており、BKAの諜報機関化が進んでいる。
 特にイスラーム過激派のインターネット活動の監視目的で設置された統合インターネットセンター(Gemeinsames Internet Zentrum)、イスラーム過激派を除くテロ組織や過激派のインターネット情宣活動の監視目的で新設されたインターネット解析調整本部(Koordinierte Internetauswertung)はそうしたBKAの諜報機関化を促進する新制である。
 こうしたBKAの諜報的活動は機能的公安警察である連邦憲法擁護庁との連携関係も強めており、結果として、刑事警察の政治警察化を促進していくことになるだろう。

 一方、関税刑事庁(Zollkriminalamt:ZKA)は連邦刑事庁の経済版のようなもので、連邦財務省の管轄下にある財務警察機関である。
 1952年設立の前身機関である関税刑事研究所を母体に1992年に設立された比較的後発の機関であるが、その法執行本部組織である関税調査局(Zollfahndungsamt)は全国に支局網を持つ本格的な連邦機関である。
 その任務は、本務である関税法違反にとどまらず、EUの市場規制違反や違法な技術移転、農業分野の補助金詐欺からマネ―ロンダリング、商標法違反に至るまで、国境を超えた経済犯罪の摘発・捜査に広く及ぶ。また連邦警察や州警察との合同で麻薬密輸やマネーロンダリングの捜査にも当たる。
 このようにZKAが総合的な経済警察機関として拡大されるにつれ、如上のBKAの増強とも相まって、従来は制約されてきた連邦の警察機能の強化、ひいては影の警察国家化を促進する動因となっていることが注目される。

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「ロシア第三帝国」の儚い夢

2022-03-03 | 時評

ウクライナ国境に軍隊を並べていたロシアが侵攻に踏み切り、しかも首都まで落とす気配を見せていることにより、以前の記事で想定した三つの可能性のうち、「ウクライナの回収」を狙っていることがほぼ明らかとなった。

古典的な軍事侵略であるが、しかし、これはかつての欧米列強―現在はNATOの仮面を被っている―が実行し、日本も追随したような強国が領土を拡張するための侵略ではなく、むしろ、ソ連邦解体後におけるNATOの東方拡大という攻勢に対する追い込まれ侵略の性格が強い。

その点では、第一次大戦の敗北後、厳しい国際的封じ込めにさらされていたドイツが、ナチス政権下で劣勢挽回・反転攻勢のために断行した侵略行動に近い面がある。ドイツ第三帝国の構築を目指したヒトラーになぞらえれば、プーチンは「ロシア第三帝国」―ソ連邦を実質上「ロシア第二帝国」と見た場合―の構築を夢見ているのかもしれない。

しかし、それは簡単でない。まず軍事‐経済総力の相違点が大きい。ナチスドイツは短期間で経済復興を果たしつつ、世界有数の軍備を整えたうえで近隣諸国の侵略に乗り出したが、現ロシアの軍事‐経済総力は決して世界最強レベルとは言えない。

もっとも、軍事的には「腐っても鯛」でソ連時代の遺産はあるが、末期でも400万超に達した旧ソ連軍に対し、現ロシア軍は90万と見る影もない。軍事的な強度は必ずしも兵員数で決まるわけではないとはいえ、征服戦争においては数は大いにものを言う。

すでに、西側では、ウクライナ軍の想定以上の抵抗もあってロシアは短期決戦に失敗し、長期戦に持ち込むしかなくなっているとの分析も出ている。最終的には征服しても、外人傭兵まで動員したウクライナ側のゲリラ的抗戦が続けば、ロシア側にもかなりの犠牲が出ることは避け難い。

さらに、経済的には、アメリカの罠にはまった面もある。アメリカがロシアの侵攻確実性を吹聴してきたことに煽られ、釣り出されて早まった侵略行動に出たとも解釈できるからである。これにより、アメリカはかえってロシア経済に打撃となる最強度の経済制裁を科す権利を得たことになる。

そこは今やロシアの後ろ盾のようになった中国の助け舟で乗り切ることができたとしても、中国の援助にすがって体制を維持していくなら、ロシアは第三帝国どころか、事実上中国の保護国化することになる。

真意をぼかしつつ国境地帯での軍事的威嚇にとどめておいたほうが、ロシアにとってメリットは大きかったはずである。プーチンは西側では巧妙な政略家として畏れられつつ過大評価されてきたが、やはり彼の本分は政治家より官僚、中でも元鞘の諜報官が適職だったということになるかもしれない。

もっとも、西側が「武器」にしようとしている経済制裁で体制崩壊を導くことは至難である。そうした外からもたらされた国難はかえって国内的には結束を固め、権力基盤を強化することになりかねないことは、クウェートを侵略したイラクのサダム・フセイン体制がその後10年以上も延命された過去の事例からも明らかである。


[追記]
ウクライナの想定を超える反撃にあい、かなりの損失を被ったロシアは、東部の親ロシア勢力を支援し、東部地域を部分占領する方針に切り替えた模様である。「作戦第一段階の完了」と情宣しているが、実態は当初狙った「ウクライナの回収」を当面断念したことを示唆している。

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近代革命の社会力学(連載第389回)

2022-03-02 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(5)チェコ/スロヴァキア分離革命

〈5‐3〉チェコとスロヴァキアの分離
 1989年12月に共産党独裁体制が崩壊したことで一段落したチェコスロヴァキアにおける「ビロード革命」はその後、1990年6月の連邦及びチェコとスロヴァキア各々での統一選挙の結果、連邦(及びチェコ)ではチェコの民主組織「市民フォーラム」が第一党、スロヴァキアでは民主組織「暴力に反対する公衆」が第一党(連邦では第二党)につく結果となった。
 これにより、非共産党系政権が全土で正式に発足することになったわけであるが、このことは連邦を構成するチェコとスロヴァキアの分離へ向けたプロセスの始まりでもあった。このプロセスも流血なしの交渉によって進められ、最終的に1993年1月1日、両国は正式に分離独立したため、これも「ビロード解体」と通称されることがある。
 元来、「プラハの春」以来、チェコスロヴァキアで何らかの変革をしかけてくるのは、劣勢に置かれていたスロヴァキアの側であった。89年革命自体も端緒はスロヴァキアの学生蜂起であり、チェコ側は押される形で革命潮流に乗っている。
 分離プロセスもまた、スロヴァキア側が提案し、攻勢をかけていった。90年統一選挙の翌月にはスロヴァキア国民議会が一方的に国家主権宣言を採択したのが最初の大きな動向であるが、これに対しチェコ側は抑圧姿勢を見せず、基本的に連邦解体に同意したため、その後のプロセスは平和的交渉に委ねられることとになった。
 とはいえ、長く連邦体制を維持してきた関係上、その急激な解体は容易でなかったが、1990年11月に連邦議会が可決した連邦終了基本法をもとに、2年間の経過措置を経て92年12月末日をもって連邦を解体することで合意が形成された。
 その間、領土や国有資産、各種社会基盤、通貨といった重要な分野における二国分割の協議が展開されていくが、これは法に基づく政府間協議であり、こうした分離問題に付きものの流血事態を見なかったことは奇跡とも言え、同時期に同様の連邦解体問題に揺れ、流血事態や内戦を経験したソヴィエト連邦やユーゴスラヴィア連邦とは好対照の範例となった。
 結局のところ、チェコスロヴァキアにおける1989年革命は脱社会主義革命にとどまらず、1918年のオーストリア革命によるオーストリア‐ハンガリー帝国からの独立以来のチェコとスロヴァキアの統合という理念からの離脱も結果したのであった。
 この二国分離プロセスは現象上は1989年の革命と区別することもできるが、大きく見るならば、89年革命あって初めて平和的に遂行することができたという点で革命の第二段階とみなすこともできる。そう見れば、チェコスロヴァキアにおける革命は、連続革命の中でも、最も長いプロセスかつ最終の締めくくりを成したものと見ることもできよう。

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近代革命の社会力学(連載第388回)

2022-03-01 | 〆近代革命の社会力学

五十六 中・東欧/モンゴル連続脱社会主義革命

(5)チェコ/スロヴァキア分離革命

〈5‐2〉学生・知識人決起から体制崩壊へ
 チェコスロヴァキアの革命は、ほぼ流血なしに(後述するように完全ではない)、かつ大混乱もなくあっさりと体制崩壊に進んだため、「ビロード革命」の異名を持つが、そうしたことが可能となったのは、隣国東ドイツの革命に押されるような形で玉突き的に発生したことに加え、前回見たような知識人主体の抗議運動の前史が継続していたことも大きいと考えられる。
 チェコスロヴァキアにおける革命の起点は、「ベルリンの壁」の打壊が始まった1989年11月10日(以下、断りない限り年度は1989年)からほどない同月16日、スロヴァキアの最大都市ブラチスラヴァ(現首都)で、学生が民主化を求める平和的な抗議デモを開始したことに始まる。
 翌日には、チェコでも1万人規模の学生デモが発生し、治安部隊との衝突で600人近い負傷者が出たとされた。これはデモ隊側の発表であり、公式確定数値ではないが、負傷者が出たことに間違いなく、この点で完全なる「ビロード」ではなかったが、死者は記録されていない。
 同月19日にはスロヴァキア側とチェコ側の双方で、それぞれ知識人を主体とする民主組織が結成された。特にチェコ側の「市民フォーラム」は「憲章77」以来、体制抗議の象徴となっていたヴァーツラフ・ハヴェルが創設者となり、以後の革命プロセスで主導的な役割を果たすことになる。
 しかし、当時の体制の根幹となっていた共産党独裁体制の放棄を最初に要求したのは、スロヴァキア側の民主組織「暴力に反対する公衆」であった。一方、「市民フォーラム」側はゼネストに入ることを発表した。
 ここに至り、共産党当局はデモの武力鎮圧を決断し、正規軍の動員を検討するが、国防省は武力鎮圧を否定する声明を発し、「プラハの春」の際には軍事介入したソ連も不介入方針を示した。
 このように内外の軍事手段を封じられたことが決定打となり、11月24日にはフサーク以下、共産党指導部が総辞職に追い込まれた。これにより、「プラハの春」挫折後の「正常化」体制は事実上崩壊したことになるが、フサークは1975年以来在任していた連邦大統領の座は譲らず、新指導部も民主化の要求に消極姿勢を示した。
 そのため、11月27日からは「市民フォーラム」が予定していたゼネストが実行され、翌12月にかけて、民主化要求デモが最大規模に膨張していった。そうした内圧の中、12月10日、ついに共産党は政権を放棄し、「暴力に反対する公衆」のマリアン・チェルファを首班とする非共産党系の政権が発足する。これに伴い、フサークも大統領を辞職した。
 41年ぶりに成立したこの非共産党系政権は、革命政権であるとともに選挙管理政権でもあり、12月29日には新たな連邦大統領にヴァーツラフ・ハヴェルが選出(議会による選出)されたことにより、チェコスロヴァキア革命はひとまず一段落した。
 この間、端緒から一か月程度という異例のスピードで革命プロセスが進行していったため、連続革命の中でも際立ってスムーズに体制移行がなされたことは注目に値する。しかし、すでに革命運動がチェコ側とスロヴァキア側で分岐していたように、チェコスロヴァキアの革命は一国単位での体制移行にとどまらない予兆が見え始めていた。

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