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民衆会議/世界共同体論(連載第4回)

2017-08-24 | 〆民衆会議/世界共同体論[改訂版]

第1章 「真の民主主義」を求めて

(3)国家は民主的ではない
 民主国家と非民主国家という対比がよくなされる。その際も、通常は議会制が存在しているかどうかが最大かつほぼ唯一の指標とされ、一応議会制が存在していれば民主国家として合格点とされている。
 ただ、表面上は議会制がグローバルに普及してきた近時は、合格点のハードルが若干高くなり、議会制が単に存在するだけでなく、それが有効に機能し、定期的な政権交代が可能な状態になっているかどうかという基準が加味され、存在だけの形式的な議会制にとどまっている場合は、欠陥民主主義と評されることもある。
 いずれにせよ、理想的な「民主国家」はあり得るということが、世界的な通念となっていることに変わりはない。しかし、その通念を一度棚上げして、果たして「民主国家」なるものがあり得るかと問うてみたい。言い換えれば、国家が民主的に運営されることはあり得るのかという問いである。
 国家とは、国民を保護するまさに家のようなものであり、実際正常に機能している国家は種々の政策をもって国民を保護していることも、事実である。しかし、国家は保護と引き換えに、国民に国家への服従を求め、義務を課し権利を制限もする。国民が主人公の国民主権を謳う諸国にあっても、国民の実態はいまだ被支配者である。
 そこで、国民が自らの代表者を選ぶ議会制によって国民主権の理念をいくらかでも国家に反映させようというのが、議会制民主主義の構想であるが、実際のところ、その狙いは政党という非公式の政治権力によって妨げられている。選挙の候補者は政党員もしくは政党の推薦を受けた党友的存在に限られ、有権者と呼ばれる一般民衆は政党から提示された選択肢に投票する受け身の存在にすぎない。
 では、議会制によらない民主国家は構想できないか。これについては、従来多くの提案と少数の実践例もあった。ソヴィエト連邦が国名にも冠していたソヴィエト制(会議制)もそうした議会制によらない民主主義の実践例であろうとしたが、党派対立を排するため、非民主的な一党支配制と接合しようとしたため、民主主義としては失敗に終わった。
 とすると、およそ政党を排除することが「民主国家」の秘訣となるのではないかという考え方もできる。たしかに政党の排除は真の民主主義への第一歩であるが、民衆の上にそびえる国家という権力支配の制度そのものを除去しない限り、単純に政党抜きの代表機関を創設したところで、国家を管理する官僚・軍人らの公務員集団が国家運営の実権を握るだけである。
 実際、議会制が有効に機能しているとみなされる「民主国家」にあっても、国家の日常的な管理運営に当たる公務員集団の実権が強まることはあれ、弱まることはなく、議会の役割が程度の差はあれ象徴的なものとなっていることは、必然的な現象である。
 国家は本質的に民を支配する権力体であって、民が主人公となって運営することを予定していない制度なのではないか―。こうして国家という地球人が長く慣れ親しんだ政治制度への未練を断ち切り、「国家は本質的に民主的でない」いう出発点に立った時、真の民主主義が発見されるだろう。

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