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「女」の世界歴史(連載第41回)

2016-08-09 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

②マダガスカルの近代女王たち
 近代女王は、欧州のみならず、アフリカの島国マダガスカルという一見予想外の場所にも出現した。マダガスカルでは、ボルネオ方面から渡来してきたアジア系集団と東アフリカからの移住集団が混ざり合いながら複数の王国が競合的に形成されていったが、18世紀末には中央高原から出たメリナ王国が最有力化し、統一国家の樹立に向かっていた。
 特に19世紀初頭に出たラダマ1世は進歩的な思想の持ち主で、軍の近代化を進めてマダガスカル全島の統一を目指すとともに、アフリカにも攻勢を強めていた西欧列強による植民地化を回避し、独立を維持するため、積極的な西欧近代化を進めた。ラダマ1世の治世は、日本より一歩先んじた明治維新のような時代であった。
 ラダマ1世が1828年に死去すると、王妃がラナヴァルナ1世として即位した。マダガスカルではメリナ王国の前身時代、16世紀に半ば伝説的な二人の女王が記録されているが、メリナ王国ではラナヴァルナ1世が初の女王である。
 彼女の登位は男性優位の伝統を変革する近代化の成果とも言えるが、ラダマ1世に世子がなかったことによる特例措置という面も強くあり、ラナヴァルナ1世は即位に当たり妃への王位継承を指示する亡夫の勅令を捏造する必要があった。
 しかし、即位後のラナヴァルナ1世は夫とは正反対の西欧断交政策を展開した。当時のマダガスカルでは、ラダマ1世の思惑に反し、アフリカへ進出する英仏の影響力が競合的に増大しており、独立を脅かしていたからである。
 そこでラナヴァルナ1世は、夫が締結した英国‐メリナ条約の破棄、キリスト教の布教禁止などの強硬策を展開し、列強の反発を招いたが、その施政方針は必ずしも全面的な反近代ではなく、近代的な知識・技術の導入や産業の育成、近代的常備軍の増強など、ラダマ1世時代の近代化政策を少なからず継承している。
 しかし一方で、悪しき慣習である強制賦役の広範な利用や、領土拡張のための戦役などは犠牲者を増やし、30年以上に及んだ彼女の治世の評判は芳しくないものだった。ラナヴァルナ1世が61年に死去すると、女王と愛人の軍士官との間の息子と推測されるラダマ2世が継承し、母王の政策を再び親西欧の方向で覆した。
 ラダマ2世は王子時代、一フランス人実業家にマダガスカルの土地や資源の独占的開発権を付与する秘密協定を結んでおり、これは後年、フランスがマダガスカルを侵略する際の口実に利用されることになる。
 ところが、ラダマ2世の政策転換に反発する国粋勢力の策動により、彼は治世わずか2年で暗殺されてしまう。その後は先例にならい、妃のラスヘリナが即位した。ラスヘリナの治世当初はラダマ2世暗殺を首謀した国粋派が実権を持ったが、間もなく開国派が盛り返した。
 ラスヘリナ女王の治世は英・米との条約締結が成り、欧米列強との関係が強化されていく過渡期であったが、68年に彼女が死去すると、続いて女王の従妹にしてラダマ2世の夫人でもあったラナヴァルナ2世が即位、さらに83年のラナヴァルナ2世死去の後は、その従妹ラナヴァルナ3世と、19世紀後半期のメリナ王国は3代連続して女王が続く欧州でも例を見ない「女王の時代」となる。
 実は「女王の時代」を通じて政府の実権を握っていたのは、三女王すべての王配兼首相の地位にあったライニライアリヴォニであった。開国派の彼が30年近く首相の座にあったこの時代のメリナ王国では、従来の絶対君主制から立憲君主制への変革が起きていた。
 しかし、ライニライアリヴォニの開国・キリスト教化政策は、英国の影響を排除するため83年から開始されたフランスの侵略戦争にメリナ王国が最終的に敗れたことで、フランスの植民地化という結果に終わった。ライニライアリヴォニは仏領アルジェリアに追放され、ラナヴァルナ3世も97年に廃位されたことで、メリナ王国最後の君主となった。
 こうして、19世紀マダガスカルの大半を占めた四人の近代女王の治世は、同時代の日本とは対照的に、鎖国政策と開国政策の間を揺れ動き、独立を維持しながら近代化を推進することに成功することなく、結果として植民地化への道を準備することとなったのである。


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