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戦後ファシズム史(連載第50回)

2016-08-02 | 〆戦後ファシズム史

第四部 現代型ファシズムの諸相

4‐1:オーストリアの戦後ファシズム
 ヒトラーの出身国でもあるオーストリアは、戦前1938年のナチスドイツによる併合により、終戦までナチスドイツの一部であったが、強いられたナチス体制であったため、ドイツ本国に比べ、その戦後処理は曖昧で、戦犯の処罰も一部にとどまっていた。
 そうした中、連合国による占領解除の翌年1956年に結党されたのが、オーストリア自由党(以下、自由党という)である。党名はリベラル風に見えるが、その実態はナチスの後身とも言えるもので、初代党首アントン・ライントハラーは元ナチ党員かつ親衛隊幹部の履歴を持つ人物であった。
 自由党は結党の年の選挙で早くも国会に議席を獲得するが、議席数一桁乃至十程度の少数野党の時代が1980年代まで続く。それでも、この間、保革二大政党政の狭間で70年代と80年代に一度ずつ、左派の社会民主党政権に連立参加したように、80年代までの自由党は穏健化し、あえて左派に接近することで、党勢を維持していた。
 この状況が大きく変わるのは、86年にイェルク・ハイダーが党首に就任してからである。ハイダーは同党では初の戦後生まれの党首だったが、両親が熱烈なナチス支持者という家庭に育ち、自身もしばしばナチ賛美を公然と行い、波紋を呼ぶ人物であった。
 ハイダーの指導下で、自由党は本来のファシズム志向を強めたが、彼のスローガンは「オーストリア第一」の国粋主義であり、そこから反移民政策を党の目玉政策に掲げるようになった。その点で、ハイダー指導下の自由党は欧州の反移民国粋主義の先駆けであった。
 ハイダー自由党は労働者階級にも支持を広げる戦略で急速に躍進し、1999年の総選挙では党史上最高の52議席を獲得、翌年発足した右派国民党政権に連立参加した。これは二党の議席が同数という対等連立であったため、自由党の発言力の増大が見込まれた。
 ハイダー自身は南部のケルンテン州知事の地位にあり、入閣しなかったが、自由党の連立参加に対し、オーストリアのファッショ化を恐れた欧州各国は重大な懸念を示し、欧州連合(EU)加盟14か国がオーストリア制裁に動く事態となった。
 その結果、ハイダーはいったん党首を辞任し、連立政権の主導権も国民党が取ったことで、自由党色は薄められることとなった。続く02年総選挙で自由党は大幅に後退、05年には党内対立からハイダーが離党して新党「未来同盟」を結党し、改めて連立政権に参加した。
 ハイダーは引き続き、州知事の立場で政権外部にあったが、08年の総選挙で未来同盟が躍進した直後、交通事故死した。ハイダーの急死により未来同盟は党勢を失い、13年総選挙で全議席を喪失した。
 一方、分裂後の自由党は歯科技工士出身で、かつてはハイダー側近でもあったハインツ‐クリスティアン・シュトラーヘ党首の安定した指導の下、党勢回復基調にあるが、政権には参加していない。 
 しかし、中東不安定化の影響から、2015年に欧州への大量難民の流入が発生したこともあり、16年の大統領選挙では厳格な移民規制と反EUを掲げる自由党のノルベルト・ホーファー候補が第一回投票で首位に立ったが、過半数に達せず、決選投票では僅差で敗れた。
 この決戦投票は自由党の申し立てを受けた憲法裁判所によって技術的な理由から無効とされたため、改めて再選挙が予定されている。オーストリア大統領は象徴的な存在ではあるが、国家元首であり、自由党がその地位を獲得することの意味は大きく、行方が注視される。


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