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マルクス/レーニン小伝(連載第35回)

2012-11-23 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期

彼は兄をとても慕っていました。
―妹マリア・ウリヤーノヴァ


(1)中産階級的出自

混血系中産階級
 本連載のもう一人の主人公ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤーノフ)はロシア旧暦で1870年4月10日、父イリヤ・ニコラエヴィチと母マリア・アレクサンドロヴナの第三子として、ヴォルガ河畔の町シンビルスク(現ウリヤーノフスク)に生まれた。
 父イリヤは地元で著名な教育家であり、数学・物理学教師から視学官となり、地域の学校教育の発展に尽力したことで、名誉貴族称号を授号された人であった。
 従来、レーニンの父方祖母がモンゴル系少数民族カルムイク人であったとする説が流布されてきたが、近年の研究でこの説は根拠を欠くことが明らかとなった。ただ、モンゴル系説が出ても不思議はないほど、レーニンと父イリヤの風貌にモンゴル的要素が認められなくもないことからすると、確認できない遠祖の中にモンゴル系の血が入っていた可能性はなお残る。それほどに、中世ロシアがモンゴル帝国の支配を受けたいわゆる「タタールのくびき」の時代は、血統的にもロシア人の中にモンゴル人の血を刻印していたからである。
 ちなみに父方祖父は、解放奴隷出身の仕立屋であった。従って、レーニンの父イリヤの代になって名誉貴族にまで昇格したウリヤーノフ家はアレクサンドル2世による農奴解放の申し子とも言える一族であった。
 一方、母マリア・アレクサンドロヴナはユダヤ系の医師であった父とドイツ人とスウェーデン人の混血であった母の間に生まれ、女性の教育機会が制約されていた時代に、独学で女学校卒業資格と国民学校(小学校)教員免許を取得した勉強家であった。
 このように、レーニンが生まれたウリヤーノフ家は、部分的にユダヤ人の血も引く教育家の混血系中産階級であり、ユダヤ系の法律家一族の出であったマルクスの出自とも少なからず共通点があったと言えるであろう。

自由主義者の父
 ウリヤーノフ家とマルクス家のもう一つの共通点として、父が自由主義的な知識人であったことが認められる。マルクスの父ハインリヒがフランス啓蒙思想の影響を受けた自由主義者であったことは第1部で見たが、レーニンの父イリヤも革命詩人ネクラーソフを愛し、教育者としては体罰反対論を実践する自由主義者であった。
 彼はトゥルゲーネフやドストエフスキーら「40年代人」にとって問題であった高邁な理想に燃えながら現実社会では役に立たない「余計者」としてのインテリゲンチャではなく、理想を教育者として実践する19世紀後半の帝政ロシアでは最も良質なインテリゲンチャの一人であった。
 このような父の薫陶を受け、レーニンを含む三男三女の6人の子どもたちは反骨心の強い人間に育ち、長男アレクサンドルをはじめとして全員が政治運動・革命運動に身を投じることになった。しかも、政治犯として刑死した兄アレクサンドルと、病気で夭折した妹オリガを除いて、姉アンナ、もう一人の妹マリア、弟ドミトリーはいずれもレーニンの革命運動に参加し、終生彼を支えた革命家兄弟姉妹という異例の一家であった。
 とはいえ、レーニンの父もマルクスの父と同様、本質的には体制派の進歩的保守主義者にすぎず、子どもたちが革命思想に感化されることを懸念していたと言われるが、本人も体制からはやや疎んじられていたと見え、25年勤続者の定年延長特典を事実上与えられないまま退職を余儀なくされ、1886年、失意の中で急死した。レーニン15歳の時であった。こうして父を比較的早くに亡くした点でもマルクスと似る。

エリート教育
 レーニンもマルクスと同様、幼少の頃から学才を示し、最年少9歳で地元シンビルスクの古典中学校に進学した。当時のロシアの古典中学校とは大学進学希望者が通過しなければならなかったギリシャ語・ラテン語の古典教育に力点を置くエリート校であって、ちょうどマルクスが最初の教育を受けたドイツのギムナジウムに相当する教育課程と言える。
 そして、レーニンもまたマルクスと同様に成績優秀者であり、1年次から最終8年次まで首席で通し、最年少17歳で卒業した時には金メダルを授与されている。この点、マルクスの場合、ギムナジウム卒業時の成績では意外にも物理が今一歩であったことと比べても、レーニンは傑出した「学校秀才」として人生をスタートした。この事実は、後年の革命家レーニンがマルクスには見られないエリート主義的な革命理論の主唱者となったことと無関係ではないかもしれない。
 ちなみに、レーニンが在学した当時のシンビルスク古典中学校長は、2月革命後に臨時政府首相にのし上がり、やがてレーニンの政敵として10月革命で政権を追われた後、亡命先の米国で客死したロシア革命を象徴するもう一人の人物アレクサンドル・ケレンスキーの父親であったという事実は、シンビルスクというロシアでも辺境の地の進歩的土地柄を象徴する偶然と言える。


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