ザ・コミュニスト

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マルクス/レーニン小伝(連載第29回)

2012-11-01 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(3)ロシア革命とマルクス

ロシア10月革命の意義
 レーニンの「力への意志」は実際にレーニンを権力の座に導いた。その動因となったのが、あまりに有名な1917年のロシア10月革命であったことは言うを待たない。革命の詳しい経緯については第2部に譲るが、レーニンの指導の下、マルクス主義の名において実行された史上初の革命が果たしてマルクスその人とどう関わるのかをここで先取りして見ておきたい。
 いきなり結論からいけば、全く関係なしと断じて過言でない。すなわちロシア10月革命は徹頭徹尾「レーニンの革命」であった。それはしばしば誤解されてきたようなプロレタリア革命ではなかったのである。
 プロレタリア革命は、マルクスがバクーニン批判の文脈の中で端的に述べているように、「資本主義的生産とともに工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆の中で相当な地位を占めるようになった時にはじめて可能」なものである。これに対して下層階級による一揆的な革命を説くバクーニンは、マルクスからすれば「彼は社会革命について全く何もわかっていない。あるのはそれについての政治的空語だけだ。社会革命の経済的諸条件は、彼にとって存在しない」ということになる。
 レーニンとボリシェヴィキの10月革命はもちろんバクーニン的な一揆ではなかったけれども、それは当時のロシアではまだ「工業プロレタリアートが少なくとも人民大衆の中で相当な地位を占める」ようになってはいない状況の下で敢行された「早まった革命」であった。10月革命はマルクスのプロレタリア革命論ではなく、レーニンの労農革命論に基づいていたのである。
 この点では、10月革命に反対したメンシェヴィキのほうがマルクスの理論により忠実であった。ユーリー・マルトフが指導し、マルクスと文通していたザスーリチや後にプレハーノフも参加したメンシェヴィキは、ブルジョワ革命の性格を持った2月革命によって誕生した臨時政府を支持し、まずはブルジョワ革命の完成と資本主義の発達を先行させるべきことを主張した。かれらは、ロシアにはまだプロレタリア革命の条件―マルクスの言う社会革命の経済的諸条件―は整っていないことを正しく認識していたからである。
 10月革命に引き続いて勃発した内戦をすべてレーニンの責任に帰するのは公平でなかろうが、マルクスが目撃したパリ・コミューンもそうであったように、革命後に巨大な反革命反動が襲いかかるのは、遡って革命の条件が熟していなかったことの証しである。
 だが、レーニンの偉大さはパリ・コミューンを教訓としつつ、困難な内戦を乗り切り、自身と党の権力を守り抜いた統治能力の高さにあった。この点では、後にも先にもレーニンに匹敵する革命家はいないであろう―強いて匹敵する者を見出すとすれば、キューバ革命の指導者フィデル・カストロかもしれない―。
 こうして本来はマルクス理論に反するロシア10月革命の成功によって、マルクス主義が初めて国家の体制教義に祭り上げられることになった。マルクスの死からわずか34年。これはナザレのイエスの死からローマ帝国によるキリスト教国教化まで4世紀近くを要したのと比べても圧倒的に早い。しかし実像と大きくずれた形でのマルクスの体制受容は、その偶像化をもたらすはずであった。


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