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マルクス/レーニン小伝(連載第36回)

2012-11-29 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第1章 人格形成期

(2)兄の刑死

畏兄アレクサンドル
 ウリヤーノフ家の長男アレクサンドルもやはりシンビルスク古典中学校から帝都の名門ペテルブルク大学へ進み、化学と生物学を専攻した成績優秀者で、自然科学者としての将来が嘱望されていた。レーニンはこの4歳年長の兄を深く畏敬し、模範とみなし、妹オリガの回想によると、彼は食べ物に至るまで兄にならっていたほどだという。
 その畏兄アレクサンドルが1887年3月、突然逮捕された。容疑は、農民社会主義を唱導するナロードニキの流れを汲み、すでに1881年3月に時の皇帝アレクサンドル2世を暗殺した“実績”を持つ過激組織「人民の意志」のメンバーとして、皇帝アレクサンドル3世暗殺謀議に加わったというものであった。
 アレクサンドルは実際、大学在学中、レーニンら家族も知らない間に「人民の意志」に加入していた。皇帝暗殺の謀議に加担したことも真実であったようで、アレクサンドルは法廷でも堂々と自己の行為の正当性を主張し、死刑判決を受けた。そして、息子の助命のため奔走していた母マリアが勧めた恩赦の申請もきっぱり拒否した彼は5月、死刑を執行された。逮捕から処刑までわずか2か月足らずというスピード執行には、当局の見せしめの意味が込められていた。
 旧ソ連の公式伝記によると、レーニンは敬慕する兄の処刑に義憤を感じて革命の道を志したとされるが、これは真実とは違うようである。兄が刑死した当時、レーニンはまだ古典中学校最終学年の17歳にすぎなかった。
 しかし、模範としてきた兄の刑死は、その前年の父の死以上にレーニンにとってショックであったはずで、大学進学直前の多感な時期にそうした体験を持ったことは、レーニンの人格形成上少なからぬ影響を及ぼしたことは事実であろう。

(3)逮捕と追放

学生運動への関わり
 レーニンは兄の処刑の翌月、1887年6月にシンビルスク古典中学校を卒業後、同年8月、文豪トルストイの母校でもある近くのカザン大学へ入学する。専攻はマルクスと同じ法学であった。弁護士だった父の意向で法学部へ行かされたマルクスとは異なり、レーニンは自らの意志で法学部を選択したようである。
 しかし、レーニンの大学生活はわずか4か月で突然終わりを告げる。折からロシアの大学では先帝アレクサンドル2世時代のリベラルな改革の成果でもあった大学の自治を否定する84年の新大学令をめぐって、これに反対する運動が広がり、地方のカザン大学にも波及してきていた。この大学令は、暗殺されたアレクサンドル2世を継いだ息子のアレクサンドル3世が導入したものであった。3世は農奴解放を実現したリベラルな父帝とは異なり、反動思想の持ち主で、父帝時代の自由主義的な改革を覆すことに熱中していたのである。
 カザン大学新入生レーニンは87年12月4日に構内で開かれた学生運動の自由を求める集会に参加したが、この集会は大学側の要請で出動した警察によって解散させられ、レーニンも翌日逮捕されると同時に退学処分を申し渡されてしまったのである。彼は2日後に釈放されたものの、当局からカザン市退去命令を受け、母方の親類が住むカザン県コクーシキノ村という僻地に転居を余儀なくされた。
 こうして秀才レーニンは早々と大学を追われたうえ、法的にも追放の身となった。これは同年代のマルクスよりも多難な船出であった。

『資本論』との出会い
 レーニンと『資本論』の出会いについては、旧ソ連の公式伝記によると、兄アレクサンドルが夏季休暇で帰省した際に持ち帰ってレーニンに手渡したのが最初であったとされるが、これも真実とは違うようである。
 むしろ彼が『資本論』と出会ったのは、母の猛烈な運動により88年にカザン市追放命令が解除され、一家で転居したカザン市内で、ある思想サークルに入会したのがきっかけと見られる。そこで『資本論』第1巻に接した早熟な18歳は、たちまちにしてマルクスの虜となったようである。
 姉アンナの回想によると、レーニンはこの時期に早くもマルクス学説の基礎理論とその意義を理解したとされるが、確証はなく、彼が『資本論』を本格的に研究し、自らマルクス主義者となるのは、弁護士資格を取得した後のことと考えられる。
 しかし、帝政ロシアで革命運動と言えば、兄アレクサンドルが参加していたナロードニキ系のものが主流であった時に、レーニンが早くからマルクスの主著に触れたことは、彼をしてナロードニキを経ずに初めからマルクス主義へ到達した最初の世代のロシア人とするうえで大きな契機となったことは、間違いなかろう。
 当時はマルクスの死から5年、エンゲルスもまだ存命中であった。そしてロシアでは後にレーニンの思想上の師となるナロードニキ出身の哲学者ゲオルギー・プレハーノフが一連の著作を通じてマルクス理論の普及を開始していた。そんなロシアの革命思潮・運動における過渡期に、レーニンという人格が形成されつつあったのである。


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