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マルクス/レーニン小伝(連載第34回)

2012-11-15 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(5)正当な再埋葬(続き)

マルクスの「反価値」
 前回見たようなマルクスの「価値」に対して、マルクスの「反価値」、言わばバランスシートの負債に相当するものは何であろうか。
 その答えは、マルクスに反対の論者であれば―誤解・曲解も含めて―ほとんど無数に挙がるのであろうが、ここではマルクスを基本的に受容する立場にあっても看過することのできない重要な点に絞ってみていきたい。
 まず、最も重大な問題は、マルクスが想定する共産主義社会の内実とそこへ至る道筋が抽象的なままに終始したことである。「マルクスは未来社会の青写真を描かなかった」と評されるゆえんである。
 もっとも、前に見たように、マルクスは資本主義からプロレタリアート独裁期を経て低次共産主義社会、そして高次共産主義社会へ至る簡単なスケッチを示してはいた。そして、別のところでは共産主義社会の比較的まとまった定義として、「合理的な共同計画に従って意識的に行動する自由かつ平等な生産者たちの諸協同組合から成る一社会」と総括したこともあった。
 とはいえ、そういう社会を建設するための工程表や設計図をマルクスは残さなかったのも事実である。それは、彼が、先に見たように、空想を排して科学を強調したからである。科学者の役割は現存社会を分析することであって、未来のユートピアを描いてみせることではない。一応そう理由づけることができる。
 しかし、革命という企ては本来、科学よりも建築に近いと言える。革命を企図する以上、設計図を持っていなければ建築技術者たる革命家は仕事にならない。後世のマルクス主義者が置かれた状況は、そういうものであった。いきおい勝手に作った設計図をマルクスのものと称して建物を建てる羽目となった。これではしっかりした建物が立つはずもなく、ソ連をはじめマルクス主義を称した体制は構造計算を誤った欠陥建物のようなものにすぎなかった。
 この設計図なき建築のもととなったマルクスの科学主義は、19世紀後半における自然科学の飛躍的な発展という大状況に対応していることは明らかであるが、自然科学が対象とする自然とは異なり、人間界の制度や慣習を対象とする社会科学では、マルクスも『資本論』第1巻第1版序文で認めていたように、「顕微鏡も化学試薬も役立たない。抽象力がその両方の代わりをしなければならない」。
 そうだとすると、社会科学における「科学」の強調は抽象的法則性の偏重を生じやすく、それは理論の教条化につながる。そこにエンゲルス以降、マルクス理論の教条化が進んだ要因の根があるとみることができる。
 さらに、彼の無類の論争癖と論争相手を完膚なきまでに論破しなければ気が済まない過剰なまでのポレミカルな性格は、実際、彼の手を離れたマルクス主義にも神学的なポレミクスの性格を与えた。マルクス主義にあっては、他のどの思想体系よりも正統/異端(修正主義)をめぐる論争がことさらに激しく繰り広げられ、マルクス主義を標榜する政党・団体の内部では、時に人命の損失を結果する粛清を伴う激烈な党争も茶飯事となった。
 もちろん、そのすべてをマルクスの責めに帰することはできないが、宗教的思惟とは無縁のはずであったマルクス理論が擬似宗教化を免れなかったことは、マルクスその人の論争スタイルと関連があることも否めない。
 さらに、歴史的な観点からみると、19世紀初頭の西欧に生まれ、同世紀末に西欧で没したマルクスは、典型的に19世紀西欧知識人であった。このことをマルクスの「反価値」と呼ぶのは酷かもしれないが、それはマルクスをほとんど必然的に西欧中心主義に導いた。彼の活動舞台はほぼ独仏英を中心とした西欧心臓部に限定されており、歴史研究上「アジア的生産様式」に注目したことを別にすれば、アジア・アフリカは視野に収められていなかった。それゆえ、彼のアジア認識は「ロシアを略奪し、焼け野原にしたモンゴル人は、かれらの生産である牧畜にかなった振る舞いをした」(『経済学批判要綱』序説)というレベルのものにとどまったのである。
 実際のところ、モンゴル人は単なる略奪者ではなく、東西交易の強力な保証人にして、帝政ロシアの成立にも少なからず触媒の役割を果たしたのであるが。しかも、皮肉なことに、牧畜の国モンゴルはロシア10月革命後ほどなくして、世界で二番目にマルクス主義を標榜する社会主義国家として歴史に再登場したのであった。
 こうして、マルクスが19世紀西欧知識人であったことはまた、マルクス理論を生産力第一主義から免れ得ないものにした。マルクスが生きていた時代の西欧では、英国を中心に産業革命が進展し、生産力の著しい発展が見られた。彼はその様子を間近で観察しながら思索し、活動していたのである。
 そのため、彼によると、資本主義が発展していけばいずれ資本主義的生産諸関係それ自体が生産諸力の発展の桎梏となるのに対し、プロレタリア革命を経て高次共産主義社会の段階にまで達すれば、「生産諸力も増大し、協同組合的富のすべての源泉がいっそう溢れるほど涌き出るようにな」るはずだったのである。一般的な反共宣伝のマニュアルにおいては、「共産主義社会では生産力は減退し、社会は貧困化する」とされてきたこととは裏腹に、マルクスの説得法は「共産主義社会でこそ生産力は著しく伸びる」だったのである。
 それゆえに・・・・と短絡すべきではないが、ソ連をはじめマルクス主義を標榜した体制(東側陣営)は、生産力の競争において「西側に追いつき、追い越せ」を合言葉に、ひたすら生産力の増強を追求し、環境的持続可能性には無頓着な政策に終始した結果、西側を上回る自然破壊・公害問題を引き起こしたのである。
 今日でも、マルクス主義者は一般に、かれらの論敵である資本主義的成長論者と並んで、環境問題に関する懐疑論派を形成していることが少なくない。しかし、ソ連邦解体以降、地球環境問題は最重要の国際的関心事項となった。こうした状況の中では、たしかに我々はもはやマルクスに依存することはできないと言わざるを得ない。マルクスは、歴史の中の人なのである。(第1部了)


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