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防衛大臣の条件(再掲)

2012-06-05 | 時評

6月4日の野田内閣改造で、防衛大臣に史上初めて国会外から、幹部自衛官出身で改憲論者の大学教授・森本敏氏が任命された。しかし森本氏は、その経歴、地位、思想どれをとっても、参院で問責決議を受けた田中直紀前大臣に代わり得る防衛大臣適格者であるとは考えられない。それどころか、同氏は史上最も危険な防衛大臣となるかもしれない。その意味で、筆者が田中前大臣への参院問責決議に寄せて4月に記した拙稿「防衛大臣の条件」で述べたことが今般の人事ではよりいっそう妥当すると考えるので、ブログの常識を破ってあえて過去記事を以下に再掲させていただく。

 ・・・・・以下、再掲・・・・・

昨日、参議院で二閣僚に対する問責決議が可決された。決議に拘束力はないとはいえ、田中直紀防衛大臣については決議を受け、辞任すべきであろう。どう見ても、見識・資質ともに防衛大臣の任に堪えないことは明らかだからである。

それにしても、日本の防衛大臣ほどその条件の適否の見極めが困難な閣僚職もないだろう。それほど、この職は複雑な性格を持つからである。

まず、防衛大臣は自衛隊に対する文民統制の要である。このことはよく知られているが、その具体的な意味はあまり究明されていない。

「文民」といっても、憲法9条で軍の保有を放棄している日本の自衛隊は軍ではないのだから、現行憲法下の日本には厳密な意味での「軍人」は一人も存在しない。制服組自衛官といえども、法的には「軍人」ではない。といって、かれらは「文民」でもない。

すると、「文民」とは何だろうか。まず、現職自衛官でないことは形式的条件である。だが、それだけでは足りない。自衛隊に対する民主的な統制を貫徹するには国会の関与が不可欠であり、中でも国会の中核である衆議院の議員から防衛大臣が任命されるべきである。

しかし、それだけでもまだ足りない。憲法9条と窮屈な同居を続ける国家武力たる自衛隊を憲法の平和主義の理念に沿って統制する能力を備えていることが、防衛大臣の実質的な条件となる。

この点、田中氏に対する野党の批判が専ら安全保障問題に関する知識の欠如に向けられていたのは間違いではないにせよ、不十分である。防衛大臣が安全保障問題に関する知識を欠いていれば、部下である制服組自衛官を適切に統制できないことはたしかであるが、大臣がただ単に安全保障問題のエキスパートであればよいというものでもない。

防衛大臣が安全保障問題に精通はしているが、制服組も顔負けなほどタカ派的で、かえって制服組を煽ってしまうような人物であれば、それは憲法9条の下での防衛大臣としてはやはり不適格である。

かといって、自衛隊そのものを憲法9条違反とみなす絶対的平和主義者では制服組との間に信頼関係を築くことができず、自衛隊の存在という現実の中で文民統制の役割を全うすることは難しい。

そうすると、防衛大臣にふさわしいのは、安全保障問題について十分な見識を備えつつ、憲法9条の下での自衛隊の役割に理解を持ち、憲法の理念に沿った統制能力を持つ衆議院議員ということになろう。

さて、そんな人物を見出すことはできるであろうか。

[追記]
一つ付け加えるとすれば、森本防衛大臣のように過去に制服組自衛官(三等空佐:空軍少佐相当)の経歴を持つ者が「文民」に該当するかという問題がある。政府見解は該当するという立場であるが、無条件にそう言い切れるか疑問である。将官や将官候補の幹部自衛官の経歴を持つ者は現在大学教授のような文民職に就いているとしても、自衛隊の「一家」であり、当然に「文民」とみなすことはできないであろう。そう考えるならば、今般の人事は憲法違反の疑いすらあることになる。

注 幹部自衛官出身者が防衛担当閣僚に就任するのは、自民党・第一次小泉内閣当時の防衛庁長官・中谷元氏(元二等陸尉:陸軍中尉相当)が初例であるが、同氏は衆議院議員ではあったこと、また防衛庁が省に昇格する前であった点に、今般人事との違いがある。


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