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脱原発から脱資本へ

2012-06-09 | 時評

昨日の野田首相の大飯原発再稼動に関する国民向け会見は、3・11から一年を過ぎての事実上の脱・脱原発宣言と受け止めてよいだろう。 

その背景には、財界・電力業界・電力系労組、そして原発立地自治体への政治的配慮があるのであろうが、原発維持の施政方針自体は資本主義国家としては、ごくオーソドクスなものである。 

実際、GDP規模で圧倒的なトップの座を維持する資本主義総本山・米国でも、「社会主義市場経済」という名の資本主義路線を軌道に乗せ、GDPで日本を抜いて2位に躍進した中国でも、フクシマを教訓に脱原発に向かう気配はない。巨大生産活動のエネルギー源となる原子力への期待は不変である。

GDP3位に後退したとはいえ、依然5兆ドル台を維持する日本を含めたGDPトップスリーが推進する資本主義的生産体制は本質的に高エネルギー経済であるから、危険ではあっても効率的な原子力という発電手段を手放せないのだ。

しかも、原発立地はどこも原発を基軸とし、雇用も原発に依存するモノカルチャー的な地域経済が構築されているから―言わば原発植民地化!―、原発の停止・閉鎖は地域社会そのものの衰退・解体につながりかねない。事故が起これば真っ先に生活基盤そのものが―場合により生命もろとも―奪われる原発立地が原発維持を要望するゆえんである。

もっとも、ドイツという例外がある。ドイツはGDP規模で日本に次ぐ第4位につけるまぎれもない欧州随一の資本主義国であるが、この国では、よく知られているように、環境政党・緑の党の勢力が強力で、フクシマの後にはついに原発立地のバーデン=ヴュルテンベルク州議会選挙で与党第一党に躍進し、州首相を出すに至った。そうした内圧の中で、本来は原発維持を求める財界に近い保守系メルケル政権も脱原発に踏み切らざるを得なかったのだ。

元来、ドイツにおける脱原発はフクシマ以前から財界を含めた社会的合意となっており、ただそれを先延ばしにするか早めるかだけが争点であるにすぎなかった。ドイツでは「原発抜きの資本主義」も十分可能だと考えられているようだ。

これを見ると、量より質を追求するのがドイツ流資本主義だと言えそうである。それは、すでに資本主義の原理を半歩抜け出そうとする小さな芽と評価することはできよう。

そうはいっても、ドイツの脱原発はこれまでのところ、専ら緑の党を推進力とする「政治的エコロジー」という上部構造レベルで推進されてきたのであって、土台たる資本主義的生産様式そのものを見直すというレベルには達していない。

であればこそ、フクシマの直前にはメルケル政権も原発の運転延長を要望する財界に配慮して、脱原発の時期を先延ばしにし、事実上の原発維持に舵を切ろうとしていたのだ。その算段が、フクシマのために狂ってしまったというのが実情である。このように脱原発が政治的なものの圏域で取引されているからには、改めて2022年に設定されたドイツの脱原発日程が将来、再び先延ばしにされる可能性も残されていることになり、予断は許さない。

要するに、単に政治決定されただけの「原発抜きの資本主義」は、土台と上部構造と間の齟齬をきたす恐れがあるということだ。

原子力という発電手段は典型的に20世紀的なもの≒資本主義的なものであったが、原子力に代替する再生可能エネルギーはある意味で「原始的」なものであって、過去への「復帰」という要素を持つ。もちろん、再生可能エネルギー発電に投入される技術は現代的なものであるから、この「復帰」は決して過去への反動的回帰ではなく、言わばポストモダンな「進歩」でもある。そうした文明的な観点からしても、「原発抜きの資本主義」は安定的に持続可能であるとは言えない。

脱原発を後戻りできない形で推進し、全地球規模で現実のものとするためには―放射性物質に国境はないから、「一国脱原発」では意味がない―、資本主義的生産様式そのものからの脱却を目指す遠大な構想を持つ必要がある。その意味で、「脱原発から脱資本へ」なのである。

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