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「女」の世界歴史(連載第49回)

2016-09-06 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(2)社会主義革命と女性
 初期の女性参政権運動が隆盛化した時期は、社会主義運動が隆盛化した時期ともほぼ重なっている。全般に有識化しつつあった中産階級女性の政治参加意識に基づく参政権運動と、労働運動から発展した社会主義運動の間にはギャップがあった。
 その点、英国における闘争的な女性参政権運動家パンクハーストが当時英国の代表的な社会主義政党であった独立労働党に入党して活動したのは例外的なことと言えた。ただ、彼女もロシア革命後、ボリシェヴィズムへの反発から社会主義運動を離れ、一転して保守党に入党している。
 社会主義運動にあっては、元来男性主導性が強い労働運動の伝統を反映して、男性中心主義の色彩が濃厚であった。実際、パンクハーストも当初は独立労働党の支部から性別を理由に入党を拒否されたことがあった。
 このようにブルジョワ女性運動とプロレタリア社会主義運動のギャップは大きいとはいえ、両者は明らかに交差しており、社会主義運動は女性参政権を後押しする役割を果たしていた。実際、歴史上初の社会主義革命を実現したロシアでは、革命の年1917年に女性参政権も実現している。
 そうは言っても、歴史的な社会主義運動において、女性の姿はまれで、少なくとも20世紀初頭前後の社会主義運動は男権主義的革命運動だったと規定しても過言ではないだろう。そうした中、当時の社会主義運動の二大拠点であったドイツとロシアには「紅一点」的な女性活動家が存在した。
 一人はドイツの社会主義者ローザ・ルクセンブルクである。ローザは当時ロシア領ポーランド生まれのユダヤ人で、スイス留学を経てドイツ市民権を取得し、ドイツ最大の社会主義政党であったドイツ社会民主党で活動した。
 政治経済学者でもあったローザの本領は理論面にあり、当初は現実妥協的な修正主義の、後にはロシアのレーニンをはじめとするボリシェヴィズムに対する強力な批判者となった。革命家としては、社民党から分離結成したスパルタクス団(ドイツ共産党の前身)の共同指導者としてドイツ革命に蜂起したが、反動化した社民党政府の弾圧により殺害される運命をたどった。
 もう一人はレーニンの妻ナジェージダ・クループスカヤである。ローザと同世代の彼女もロシア領ポーランドに生まれたロシア人で、レーニンとは革命前から苦楽を共にした同志的伴侶の関係であった。
 教師出身のクループスカヤは10月革命後、ボリシェヴィキ政権の教育副大臣に相当する職に任命され、革命体制初期の教育制度の設計や後に体制エリート育成の柱となる少年団(ピオネール)の組織化などで手腕を発揮した。しかし、彼女にしても、正式の大臣格で遇されることはなく、夫レーニン没後に後継者として台頭してきたスターリンからは冷遇され、大粛清の犠牲はさすがに免れたものの、スターリン独裁体制が固まる中、急死した。
 ちなみに、ロシアではアレクサンドラ・コロンタイの名も見落とせない。元来、穏健なメンシェヴィキ出身の彼女は、革命前にボリシェヴィキに転向し、10月革命後は保健人民委員(保健大臣相当)に抜擢された。これは女性大臣の世界初例と目されている。
 コロンタイは社会主義フェミニズムの理論家でもあり、実務者としてはロシア共産党中央委女性局を設立し、女性政策の立案にも当たった。しかしレーニンと対立したため、間もなく外交官に降格転官され、スターリンの大粛清は乗り切ったものの、党中央から排除されたまま引退した。
 結局、ロシア革命後のソ連共産党体制は、党女性局を廃止した男権主義的なスターリンの指導下で、男性中心主義に染められていき、有力な女性政治家の姿はほとんど見られなかったが、コロンタイの初期の貢献もあり、女性の労働参加は奨励され、女性の社会進出全般は進んでいく。
 ところで、これら社会主義運動・革命家女性たちはほぼ中・上流階級の出自であったが、例外的にスペイン共産党の指導者となるドロレス・イバルリは鉱山労働者家庭の出自で、お針子や女中も経験したプロレタリアートであった。
 彼女はスペイン共産党創設に関わった古参幹部で、スペイン内戦では情宣者としても反ファシスト・共和派を鼓舞する役割を果たした。内戦終了後、フランコ独裁時代は長期の亡命生活を強いられるが、この間、1942年から60年までスペイン共産党書記長の座にあった。
 イバルリは一貫した親ソ派として教条主義的な態度を保ったことでソ連の評価を後ろ盾としていた面もあるが、当時ソ連をはじめ各国共産党指導者が男性陣で固められていた中では、稀有の女性指導者であった。

補説:戦前日本の女性社会主義運動
 社会主義運動はもちろん、女性の政治運動そのものが徹底的に抑圧されていた戦前日本で、九津見房子、山川菊枝、伊藤野枝ら女性社会主義者が独自に結成した赤瀾会(せきらんかい)の活動は、「紅一点」にとどまらない女性独自の社会主義運動としてユニークなものであったと言える。
 赤瀾会の結成は大正デモクラシーのリベラルな気風の反映ではあったが、あくまでも体制の許容枠内での「デモクラシー」にすぎなかった当時、目に付きすぎた女性グループには当初から当局の弾圧が加わり、結局、自然消滅に向かわざるを得ない運命にあった。


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