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「女」の世界歴史(連載第48回)

2016-09-05 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅲ部 伸張と抑圧の時代

第五章 女性参政権から同性婚まで

(1)女性参政権運動
 20世紀以降の女権の伸長を促進したのは、女性参政権運動であった。といっても、その発祥と経過、進展状況は諸国によって大きく異なり、本来は個別に論ずべきこととであるが、ここでは20世紀初頭前後における初期の状況に絞ってみることにする。
 以前にも触れたとおり、女権運動は女性の労働参加が早くから進んだ米国で盛んとなり、19世紀半ば頃から女性参政権運動が組織的に開始されていく。その結果、1869年、ワイオミング準州で全米初の女性参政権(選挙権のみ)が認められた。これを皮切りに、北部では州(準州)のレベルで女性参政権が認められていく。しかし、保守的な南部諸州では進展せず、全米(連邦)レベルでの女性参政権も1920年を待つ必要があった。
 国政レベルで初めて女性参政権を認めたのは1893年のニュージーランドと紹介されることもあるが、当時のニュージーランドはまだ英国領であり、自治領でさえなかった。むしろ、ニュージーランドに先立って1901年に英国自治領となったオーストラリアを嚆矢と見るほうが妥当であろう。
 連邦国家オーストラリアでも、米国と同様、19世紀末から連邦形成前の各植民地(州)のレベルで女性参政権がまず認められ、その延長上に連邦レベルでも認められることとなった。結果、オーストラリアは発足時から女性参政権が保障される稀有の国となった。ただし、当初は先住民(アボリジニ)の選挙権を排除する人種差別的な法制であり、先住民を含めた完全な両性平等選挙権の保障は1962年を待たねばならなった。
 ちなみに、完全な独立国家で初めて女性参政権を実現したのは1913年の北欧ノルウェーであった。元来リベラルな風土のノルウェーでは、19世紀末の男子普通選挙制実現から10年余りでの女性参政権の達成である。
 ニュージーランドやオーストラリア、ノルウェーの女性参政権運動は穏健・非暴力的な方法で実現されたが、議会制度発祥地英国における女性参政権運動はいささか様相を異にした。ここでは、エメリン・パンクハーストが主導する「過激な」運動が展開されたからである。
 中産階級生まれのパンクハーストは女性運動家だった母親の影響から14歳にして女性参政権運動に身を投じた。彼女が先行の穏健な女性参政権協会全国連合に対抗する形で立ち上げた女性社会政治同盟は極めて行動主義的で、その活動手法は打ちこわしや警察襲撃、ハンストなどの「過激」なものであった。そのため、パンクハーストとその共闘者であった娘たちはたびたび検挙された。
 しかし、第一次世界大戦が勃発すると、パンクハースト親子は過激手法の停止を宣言、積極的な戦争協力を展開した。こうした順応主義と当初の闘争主義のいずれが功を奏したのかについては議論の余地があるが、英国では1918年に導入された制限的な普通選挙制度において、30歳以上限定で女性に初めて参政権が認められた。完全な女性参政権の達成はそれから10年後の1928年、パンクハーストの死から数週間後のことである。
 パンクハースト流闘争主義は、むしろ海を越えて米国の運動を触発していた。米国における全米女性参政権運動のリーダー、アリス・ポールはホワイトハウス前でのピケやハンストなどの直接行動を展開し、当時、女性参政権に否定的だったウィルソン政権と厳しく対峙、自身も投獄された。
 結局、戦争協力を展開したより穏健な女性運動の後押しもあり、ウィルソン大統領はその立場を変え、「戦時措置」(ウィルソン)としての女性参政権を認める憲法修正に踏み切ったのである。英国よりも8年早い女性参政権の実現であった。


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