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良心的裁判役拒否(連載第1回)

2011-08-20 | 〆良心的裁判役拒否

はしがき

 本連載タイトル『良心的裁判役拒否』を正しくお読みいただけたでしょうか。難読漢字はありませんが、ポイントは「裁判役」。
 これを「さいばんやく」でなく、「さいばんえき」とお読みになれた方は相当な方でしょう。本連載をお読みになるまでもなく、すでにその内容をほぼ理解しておられる方だと思います。
 残念ながら、「さいばんやく」と読んでしまわれた方も、裁判員制度という新しい制度のことはご存じで、そのことが頭に浮かんだかもしれません。
 本連載はその裁判員制度を主題としていますが、ただ単に制度を批判することに主眼があるのではありません。そういう本・論稿ならすでにいくつも出ています。本連載は、裁判員制度の下で一般国民(有権者)に課せられるようになった新たな義務としての「裁判役」を自己の良心に従って拒否しようとするに際しての実践的なガイドとして企画されたものです。

 裁判員制度は、死刑が法定されている罪に係る事件を筆頭とする重大凶悪事件を中心に、くじで選ばれた一般国民が裁判官とともに審理・判決にのぞむ制度として2004年に制定され、5年間の周知期間を経て2009年5月より施行された新しい刑事司法制度です。
 本文でも詳しく見るように、この制度の下では、当局に勝手にくじで引き当てられた有権者は原則として裁判員としての役務を果たさなければならず、正当な理由なくして拒否すれば最大で10万円の過料(行政罰)の制裁が科せられます。
 こうした仕組みによって、日本国民は突如として新たに重罪裁判という課役を法的に負わされるようになったわけです。本連載ではこうした課役のことを「裁判役」と呼びます。
 「裁判役」を「さいばんえき」とお読みになれた方は、おそらく「兵役」という戦前の日本にもあり、現在でも多くの諸国に残されている軍事動員制度のこともご存じと思います。実際、「裁判役」は「兵役」に等しい性格を持っています。これは決して大げさな比喩ではなく、本文でも見るように本当にそうなのです。
 それだから、兵役と同様に、「良心的拒否」ということが問題となります。実際、制度施行前から、各種世論調査等でも「他人を裁きたくない」という理由で裁判員制度に否定的な意見は少なからず表出されていましたし、識者の間からも「隣人に隣人を裁かせる残酷な制度」という厳しい批判が出されていたところでした。
 こうした残酷さ―と言って悪ければ過酷さ―は、死刑制度を完全に存置したまま死刑判決にも裁判員を関与させる特異さによっていっそう助長されています。言わば、隣人をして隣人に対して死を命じさせる制度なのです。
 裁判員制度を推進してきた政府・法曹界は裁判員制度を、欧米に広く見られる一般市民による司法参加の制度である陪審制や参審制になぞらえて説明し、民主的な司法制度だとして正当化を図ってきました。しかし、これも本文で分析するように、裁判員制度と陪・参審制とは非なるものです。両者を意識的に混同させる論理は一種の詭弁なのです。
 本連載ではこうした詭弁を見破り、一般国民を司法資源として動員する「司法的兵役」の制度にほかならない裁判員制度を単に「批判する」のではなく、「拒否する」市民的戦略を探求していきます。
 もう始まってしまったのだからとあきらめたり、国家の強制的制度だからとひるんだりする必要はありません。自己の良心に従い、不正に手を貸すことを拒む良心的拒否は今日の世界では基本的人権の一つとして明確に位置づけられており、法的根拠も見出せるからです。ほんの少しの勇気があれば大丈夫です。

 本連載は、裁判員制度構想を知ったときから強い疑問を抱いた筆者が制度施行直前に書き上げ、某商業出版社に持ち込んでみたところ、(当然と言うべきか)にべもなく却下・返送されてきた原稿を再検討し、濃縮したうえで連載用に書き改めたものです。商業出版の道を閉ざされたことでかえって内容を凝縮的に深めるチャンスが与えられたことに感謝すべきなのでしょう。
 本連載が良心派市民の方々のお役に立てることを願っています。


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