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不具者の世界歴史(連載第29回)

2017-07-10 | 〆不具者の世界歴史

Ⅴ 参加の時代

新旧優生思想の交錯
 21世紀前半期の現代は、障碍者にとって「参加」の時代としてくくることができるのであるが、その渦中で、一度は否定されたかに見えた優生学の復権とも取れる矛盾した動向も見られる。
 そうした新優生学運動と言うべき思潮の象徴は、出生前診断とその結果に基づく胎児性障碍児の中絶慣行である。これは産科医療の技術進歩により胎児の健康状態を出生前にかなりの程度把握できるようなった科学の時代を反映した新しい動きである。
 すわなち旧優生学にあっては、出生した障碍者を断種して子孫を残せないようにする―極端には、ナチスのように障碍者を殺戮する―ことで優良遺伝子の保存を図るという事後的手段が採られたが、新優生学にあってはそもそも先天性障碍者が出生しないようにすることで障碍者の数を事前的にコントロールすることが目指されている。
 しかも、出生前診断の結果、中絶するかどうかは妊婦の自己決定に委ねられており、国家その他の第三者がこれを強制することはないという点では、強制性の強かった旧優生学に比べ、ソフト路線である。個人主義・自由主義と結びついたリベラル優生学とも言える。
 このような新優生思想をどう評価するかは、中絶そのものの是非という問題を含め、根本的な生命倫理問題となるため、ここでは云々しないが、出生前診断の精度が今後さらに進歩し、かつ出生前診断→中絶という流れが産科医療の現場で定着すれば、少なくとも先天性障碍者がほぼ存在しない社会というナチ的“理想”の実現もあり得ることになる。
 その点、2016年に日本の相模原市で発生した重度障碍者施設襲撃・大量殺傷事件は、重度障碍者を排除すべきとする優生思想に固執した犯人による思想的なテロ事件の性格を持つ、障碍者史上も世界的に前例を見ない事件として、内外に衝撃を与えた。
 自身が襲撃した施設の元職員でもあった犯人が抱いていたとされる思想傾向はナチスのそれに近いものであり、国の政策としては事実上放棄された旧優生思想も、個人のレベルでは決して根絶されたわけではないことを物語る事案でもあった。
 こうして、新旧優生思想は個人のレベルで交錯し合いながら、参加の時代という障碍者にとっては春の時代に投げかけられた暗雲として、なお影を落としていることも否めない。


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