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弁証法の再生(連載第10回)

2024-04-26 | 〆弁証法の再生

Ⅲ 唯物弁証法の台頭と変形

(9)唯物弁証法の教条化
 唯物弁証法はマルクスの遺稿整理・解説者となった刎頚の友エンゲルスの手を経て、いわゆる「マルクス主義」における理論的な基軸となるが、その過程で次第に教条化の傾向を見せる。そうした弁証法の教条化の第一歩はまさにエンゲルスに始まると言える。
 一般に他人の遺稿整理というのは困難な作業であり、とりわけマルクスの「悪筆」に悩まされながらの作業は至難を極めた。結果として、エンゲルスはマルクスのいち「解説者」を越えた「解釈者」とならざるを得なかったようである。
 エンゲルスはマルクスの思想を「科学的社会主義」という標語のもとに総括するのであったが、その基本定式として唯物弁証法とそれに基づく歴史観である唯物史観とが据えられた。エンゲルスによる図式的なマルクス解釈はわかりやすかったため、19世紀末の労働運動・反資本主義運動の中にいち早く吸収され、風靡することとなった。
 かくして、唯物弁証法はそれ本来の意義が充分に咀嚼されないまま、とみに政治思想化していくことになる。想えば、弁証法は古代ギリシャでの発祥時から政治と無関係ではなく、弁証法に関わったゼノンやソクラテスは政治犯として捕らわれ、犠牲となった。
 近代における唯物弁証法も同じ宿命を負うようであった。しかし、唯物弁証法はロシアという意外な地で一つの政治体制教義として安住の地を得ることになる。ロシア革命後、ロシアを中心に樹立されたソヴィエト連邦の体制教義に納まったからである。
 それはマルクスとロシア革命指導者レーニンの名を二重に冠し、「マルクス‐レーニン主義」と称されたが、実質上はレーニンを継いだスターリン体制下の教義である。
 もとよりスターリンは哲学者ではなく、典型的な政治家であり、哲学的素養には欠けていた。このような政治家による哲学の消化不良にありがちなのは、ご都合主義的な単純化である。特にスターリンは、エンゲルスの弁証法三定式のうち第三項「否定の否定」を否認した。
 実は、この第三項こそは単純な形式論理としての「二重否定」を超えた弁証法的止揚の言わばジャンプ台を成す部分であるのだが、これを否認するということは弁証法そのものの否認に等しい。しかし、スターリンがこれを否認したのは、まさに自身の独裁体制の「止揚」を恐れたからにほかならない。
 これによって、唯物弁証法はその動的な性格を失い、ソ連という既成の体制—中でもスターリン独裁体制—を固定化し、その正当性を保証するための手段的な教条へ変形されてしまうのである。以後の唯物弁証法はこうした教条的変形からの脱出が課題となった。


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