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「女」の世界歴史(連載第50回)

2016-09-12 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(3)オランダの「女王の世紀」

 オランダでは、19世紀末から21世紀初頭にかけて、実に三代123年(1890年~2013年)にわたって女王が続き、その間、20世紀の100年間は全面的に女王一色であった。これは、世界史上も稀有のことである。
 オランダの「女王の世紀」を作り出した三代女王の最初を飾ったのは、ウィルヘルミナであった。その即位の経緯と生母エンマの摂政期のことは以前見たとおりであるが(拙稿参照)、10歳で即位したウィルヘルミナ女王の治世は世紀をまたいで1948年まで、58年にも及んだ。
 二つの大戦を経験したこの時代は、オランダにとって激動の時代であった。国内的には、エンマ摂政時代に立憲君主制が強化され、議院内閣制の仕組みが整備されていく民主的発展の時代でもあった。第一次世界大戦後の1919年には女性参政権も実現している。
 政治の実権はますます首相が握るようになると、戦間期の経済発展の恩恵も受け、ウィルヘルミナの関心はビジネスや投資に向けられた結果、女王は女性として最初の億万長者となった。
 第二次大戦時にドイツの侵攻・占領を受け、イギリスへ亡命を強いられると、女王は5年の間、亡命政府をまとめて反ナチスの立場で解放に注力した。45年の解放、本国帰還後は最大の植民地インドネシアの独立戦争が待ち受けていたが、その渦中の48年、ウィルヘルミナは戴冠50周年を期して、娘のユリアナに譲位し、引退した。ユリアナ王女が後継者となったのは、死産や流産を繰り返した女王にとって、唯一存命する子がユリアナだったからにすぎない。
 こうして、戦後の復興と脱植民地主義、欧州における中堅国家への道を歩む新生オランダの象徴はユリアナ女王に託されることになるが、彼女の治世はたびたび宮廷スキャンダルに見舞われた。
 その初期には、三女の眼病の治療のために招聘された心霊療法師ホフマンスが女王側近として寵愛されるに至り、宮廷・政府を二分する騒動となった。中期には、長女ベアトリクス(後の女王)のドイツ出身の夫クラウスが元ナチス国防軍とヒトラーユーゲントのメンバーだったことがナチスの占領を経験したオランダ国民を憤激させ、暴動にまで発展した。
 晩年には女王自身の王配ベルンハルトが米ロッキード社から賄賂を受け取っていた疑惑が浮上し、ベルンハルトは公職辞任に追い込まれたが、こうした数々のスキャンダルにもかかわらず、「陛下」より「夫人」と呼ばれることを好んだ庶民的なユリアナ女王の人気は衰えず、1980年に退位するまで30年以上、君臨し続けた。
 ユリアナには男子がなかったことから、結果的にベアトリクスが継承し、三代連続の女王となった。その即位に際しては左派の暴動が起こる波乱があったが、ベアトリクスも30年以上にわたって現代オランダの象徴としての役割を果たし、2013年に長男ウィレム‐アレクサンダーに譲位、引退した。
 これにより、オランダでは1890年以来123年ぶりの男王の即位となったのだが、ベアトリクス女王在位中の1983年の憲法改正により、オランダ王位は性別不問の長子継承原則に変更されたため、次期国王はウィレム‐アレクサンダーの長女カタリナ‐アマリア王太子であり、再び女王の即位が予定されている。

補説:男女平等君主制
 オランダの「女王の世紀」は、たまたまオランダ王家に男子が誕生しない傾向が長く続いたことの結果であり、王位継承が性別不問の長子優先となったのは、本文に示したとおり、1983年のことにすぎない。
 この点、欧州君主制においては、1979年のスウェーデンを皮切りに、王位継承を長子優先制とする動きが広がり、オランダ、ノルウェー、ベルギー、デンマークと続いている。英国でも、2013年の法改正により、2011年10月28日以降に出生した王族については、長子優先制とされることになった。
 こうした制度変更は、王位継承にも両性平等の原則を適用する動きと見ることができる。これは近世以降、欧州各国で女王の輩出が続いてきた先例を踏まえつつ、ますます儀礼的・象徴的な制度となった君主制を現代に適応化・延命しようとする最後の努力と言えるかもしれない。


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