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「女」の世界歴史(連載第40回)

2016-08-08 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(3)近代化と女性権力者

①ヴィクトリアとイサベル
 近代化は、女性の権利という意味での女権の拡大をもたらしていくが、同時に、近代化の中で新しいタイプの女性権力者が出現する。この両現象は必ずしも直接には関連しないが、通底するものはあっただろう。
 まず近代化中心の欧州においては、市民革命を通じて、伝統的な君主制が立憲君主制へと変革されていく中で、立憲女王が出現してくる。その代表例は、19世紀の英国に見られる。
 英国では、17世紀末の名誉革命の結果、ステュアート朝内部の体制内改革の形で立憲君主制の萌芽が生まれ、オランダ人の夫ウィリアム3世と共同統治したメアリー3世、さらに、ウィリアム没後に単独女王として即位したアンと半立憲的な女王を輩出する。アン女王が継嗣なく没すると、議会はドイツ人のハノーファー選帝侯ゲオルクを招聘し、ジョージ1世として立てたが、英語を十分に話せず、英国統治にも無関心なジョージの下、結果的に立憲君主‐責任内閣制が構築されていった。
 このハノーヴァー朝子孫として、1837年に即位したのがヴィクトリアであった。ハノーヴァー王家はドイツ系ながら英王室となっていたため、女子の王位継承を排除するゲルマン伝統のサリカ法の適用は除外されており、王位継承に当たり法的な障害はなかった。
 ヴィクトリアが即位した当時の英国では、まだ議院内閣制は発達途上にあり、国王には大権が留保されていた。ただ、ヴィクトリアの即位時は18歳と若かったため、貴族出身の首相メルバーン子爵が実権を持ったが、メルバーンが辞職してからは、やはりドイツ人の王配アルバートの強い影響下に、政務を行なった。
 そのアルバートが1861年に早世すると、国王権力の弱体化が進み、次第に保守党vs自由党の二大政党政に基づく議院内閣制の仕組みが確立されていく。それに相伴って、英国は対外的な膨張を続け、大英帝国の地位を確立していくのであった。 
 自信家のヴィクトリアはしばしば気まぐれに政治に介入しようとする傾向が強かったが、英国の議会政治は女王の気まぐれに振り回されることのない程度に発達しており、ヴィクトリアは、結果として、王は君臨すれども統治しない20世紀的な象徴君主制の確立への橋渡しの役割を果たしたと言えるだろう。

 英国のヴィクトリア女王と同時代、スペインにも類似の女王イサベル2世が出現した。保守的なスペインではレコンキスタを完成させ、統一スペインを樹立した立役者のイサベル1世以来、女王は輩出されなかったため、イサベル2世は1世以来、300年ぶりの女王であった。
 イサベル2世が属したボルボン朝はフランスの近世王室であったブルボン家の支流であり、サリカ法を保守していたが、男子のなかったイサベルの父フェルナンド7世がサリカ法を廃して、女子の王位継承に道を開いていた。
 市民革命の波は保守的なスペインにも押し寄せていたが、議会制が確立されていないスペインでは保守派と自由主義派の争いが革命、クーデター、内戦という不正常な形をとることが多く、19世紀のスペインは激動の時代であった。
 そうした中、ナポレオン支配から解放された後に再即位したフェルナンド7世は絶対君主主義者として反動政治を展開したが、統治能力は乏しく、国政は混乱していた。そのフェルナンドの没後、1833年に即位したイサベルはわずか3歳だったため、生母マリア・クリスティーナが摂政として実権を持った。
 これに対し、サリカ法の復活を主張するイサベルの叔父カルロスが反乱を起こし、カルロス5世を僭称する事態となった。カルロスは保守的な教会や貴族層の支持を受け、進歩的な立憲派を支持基盤としたイサベルに対し7年近くにわたり抗争するが、最終的に休戦に至った。
 この間、37年にはスペインは憲法上立憲君主制を宣言するも、カルロス派(カルリスタ)はなお勢力を保持しており、政府内でも穏健派と急進派の対立がしばしばクーデターや独裁政治を招くなど、政情は安定しなかった。
 それに加え、43年以降親政を開始したイサベルにも気まぐれに政治介入を試みるヴィクトリアと同様の傾向が見られたが、議院内閣制が確立されていないスペインでは英国のように女王の気まぐれを制御できず、国政の混乱に拍車をかけた。
 こうした状況を見て、68年、革新派軍人がクーデターを起こし、イサベルはフランスへ脱出した。彼女は王太子への譲位を望んだが、受け入れられず、70年に退位を余儀なくされ、以後は1904年の死去までパリで亡命生活を送った。こうして、近代女王としてのイサベルはヴィクトリアとは対照的な運命をたどったのだった。

補説:オランダ近代女王
 英国のヴィクトリア時代晩期には、オランダでも近代女王が誕生する。オランダにおけるヴィクトリア女王とも呼ぶべきウィルヘルミナ女王である。ただ、1887年にサリカ法が廃止され、90年にウィルヘルミナが即位した時は10歳だったため、98年まで生母エンマ王太后が摂政として支えた。
 エンマは先王ウィレム3世の後妃だったが、夫のウィレムは元来、世襲共和制から君主制に移行するという歴史をたどったオランダの自由主義的な伝統に反して、絶対君主的な振る舞いをして評判を落としていたところ、摂政エンマはこれを軌道修正し、立憲君主制の確立に尽力したのである。
 オランダでは、ウィルヘルミナ以降、彼女の娘から孫娘へと三代100年以上にわたって連続して立憲女王が続き、特に20世紀は全面的に女王の治世一色となる世界史的にも例を見ない時代であったが、このオランダにおける「女王の世紀」については、改めて次章で見ることにする。


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