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犯則と処遇(連載第52回)

2019-06-07 | 犯則と処遇

45 復讐心/報復感情について

 本連載を通じた「犯罪→刑罰」体系から「犯則→処遇」体系への転換に当たり、最も障害となるのは、復讐心/報復感情の問題かもしれない。特に殺人のように取り返しのつかない被害を惹起する犯行に対して、加害者に刑罰を加えることなく、非刑罰的な「処遇」に付するのでは、復讐心や報復感情を満足させられないのではないかという懸念である。

 今、復讐心と報復感情とを連記したが、厳密には両者は別のものである。復讐心は通常、被害者本人やその近親者が加害者に対して(時として、その親族に対しても)抱く仕返しの心情であるのに対して、報復感情は社会大衆が犯罪の加害者に対して向ける第三者的な加罰感情である。
 その点、「犯罪→刑罰」体系は、被害者らの復讐心とは一線を画しつつも、それを社会大衆の報復感情の中に取り込み、代表させるような形で刑罰に反映しようとする応報主義のイデオロギーを前提としている。これは、社会心理的にも巧妙な策であり、世界中で成功を収めてきたことはたしかである。

 報復感情が民族や文化を越えた普遍的なものだとすれば、それは正義という人類の共通感覚に由来するものかもしれない。中でも給付と対価の関係性のような交換的正義と呼ばれるものである。これによれば、他人に害を加えたなら、加害者にも交換的に罰が加えられることが正義であるとされる。
 このような正義の感覚は、人類が先史時代から物を交換し合うという習性を身につけてきたことに淵源があるのであろう。とすると、人類が交換行為を続ける限り、言わば罪と罰の交換関係である刑罰制度からも離脱することは難しいかもしれない。言い換えれば、我々が交換経済―その権化が貨幣経済―そのものと縁を切らない限り、「犯則→処遇」体系への転換を実現することは難しいかもしれないということである。

 そのため、「犯則→処遇」体系への転換を真に完遂するには、貨幣経済が除去された共産主義社会の実現を要するという考えに行き着く。原理的には交換行為をしない共産主義社会における主要な正義は交換的正義ではなく、各人にその価値に応じた配分をなすべきとする配分的正義が軸となる。
 そうなれば、犯則行為者に対しても、応報的な刑罰ではなく、その行動科学的な特性や社会的な要因を考慮した最適の矯正・更生処遇を与えることこそ正義であるという認識が共有されるようになるに違いない。

 とはいえ、被害者及びその近親者の復讐心に関しては、それを抑制することは、たとえ配分的正義を軸とする共産主義社会にあっても不可能ではないかという疑念は残るかもしれない。
 ただ、復讐心の発生源もやはり、やられたらやり返さなければ不公平だという感覚に由来しており、これも広い意味では例の交換的正義の感覚と同種のものである。しかし、復讐心はより当事者性が強いため、それが充足されないことへの不満は大きなものとなり、実際に復讐行為を招きかねないという懸念があるかもしれない。

 この深遠な課題に対して、宗教的な博愛精神や慈悲の心によって復讐心を抑制するといった宗教的なアプローチも可能だが、これは信仰を持たない者には有効でない。より普遍的なアプローチは、心理学的・行動科学的なものとなるであろう。

 被害者側の心理や行動を主題的に研究する被害者学は現代の刑罰政策においても興隆し、発展しつつある新しい学術であるが、「犯則→処遇」図式の下でその発展がさらに促進されれば、被害者やその近親者の復讐心を軽減・緩和するための心理的・社会的な援助の技術と制度とが確立されるに違いない。


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