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戦後日本史(連載第9回)

2013-07-02 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔一〕60年安保闘争

 1950年に始まり、10年に及ぶ「逆走」をスピードダウンさせる契機となったのは、60年安保闘争の民衆パワーであった。前述したように、岸内閣が最大使命とする日米安保条約改定は、日本が米国の戦争政策に巻き込まれることを懸念する国民の強い反対に遭い、安保改定反対闘争は空前の盛り上がりを見せたのだった。
 国会内では日本社会党が反対の中心にあった。同党は50年代を通じて着実に議席を伸ばしたが、自民党と拮抗するまでには至らず、55年体制下では政権にありつくことのない「万年野党」であったとはいえ、「逆走」を鈍化させるだけの力量は備えており、当時がこの党の全盛期でもあった。
 特に自民党が掲げる「自主憲法制定」に関しては、同党が憲法上改憲に必要とされる衆参両院での三分の二以上の議席を獲得することを阻止するうえで、社会党の対抗力は確実に効いていた。
 60年安保闘争は、こうした社会党を議会内センターとしつつ、議会外の幅広い勢力が結集して、空前の国会包囲デモに表出される民衆パワーを示した。戦前の民衆パワーの極点が1918年の米騒動だったとすれば、その42年後の60年安保闘争は戦後民衆パワーの極点であったと言えるであろう。
 しかし岸内閣はこうした民衆パワーを警察力や闇の反社会勢力まで動員して抑圧し、60年6月15日にはデモに参加していた女子学生一人が死亡する事態となった。
 結局、60年5月に衆議院で強行採決され、可決していた新安保条約(現行条約)は同年6月、参議院での審議すらないまま自動成立するという非民主的な形で実現を見た。しかしアイゼンハワー米大統領の記念すべき訪日は警備上の理由から中止となり、岸内閣は一連の政治混乱の責任を取って総辞職したのだった。
 こうして、「逆走」を完成させるべく登場した岸内閣は、日米安保改定の強行という“成果”を米国に差し出しつつも、内政面では民衆パワーの前に道半ばで挫折したのである。 

〔二〕経済開発優先路線への転換

 岸の後任となったのは、大蔵官僚出身の池田勇人であった。吉田茂の流れを汲む池田は本来リベラルとは言い難い人物ではあったが、60年安保闘争後の状況下で、当面体制維持のために何が求められているかを理解していた。
 池田内閣がぶち上げ、今日でも60年代を象徴するキーフレーズとして記憶されている「所得倍増計画」は、以後「改憲」に帰結される「逆走」のスピードを落としてでも経済開発を優先し、国民の生活水準全般を引き上げることを目指すというブルジョワ支配層の新戦略の表現でもあった。
 その裏には、60年安保闘争で表出された民衆パワーを削ぐうえでも、国民の所得水準を高め、政治への不満を逸らすという「ガス抜き」の意図も込められていた。
 こうした新戦略は、池田内閣以降、佐藤栄作内閣、田中角栄内閣の三代14年にわたって展開され成功を収め、この間に日本はいわゆる「高度経済成長」を達成したのだった。佐藤内閣時代の68年には、当時の西ドイツを抜き、資本主義陣営ではGNP規模で米国に次ぐ第二位の経済大国にのし上がった。敗戦から20年余りのことであった。
 この時期は同時に、自民党の全盛期でもあった。当時の自民党では岸の流れを汲む右派が後退し、代わって穏健中道派が党を掌握していたため、自民党自体が三分の一くらい社会民主主義に傾斜していたと言ってよかった。岸内閣時代に着手されていた社会保障制度の整備が―限界や欠陥を蔵しつつ―前進したのも、この時期であった。
 改憲は取り下げられることこそなかったが、棚上げにされた。定着しつつあった自衛隊も「専守防衛」が国是とされ、佐藤内閣時代にはいわゆる「非核三原則」が打ち出されるなど、改憲の最大標的憲法9条にも配慮が払われていたのである。
 ただ、こうした自民党の変化はどこまでも政権保持のための戦略の域を出るものではなく、本質的な変化ではなかったことはもちろん、経済開発優先路線は多くの開発利権を生み、政・財・官が癒着する構造的汚職体質の形成を促した。
 こうした社民主義の衣を被った「利権保守主義」は、70年代に入ると、現職総理大臣・田中角栄の収賄という前代未聞の汚職事件(ロッキード事件)を引き起こすまでにエスカレートし、70年代後半には国民の政治不信から自民党政治を行き詰まりに直面させることになったのである。


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