ザ・コミュニスト

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共産論(連載最終回)

2019-07-24 | 〆共産論[増訂版]

あとがき

 真の共産主義―まがい物や自称ではなく―を発見する旅も、これにて終わりである。文字に書けば短い旅に見えるが、実践しようとすれば長旅になるだろう。
 その点、ロシアの文豪ドストエフスキーが特異な問題作『地下室の手記』の主人公におおよそこんなことを言わせている。人間は物事を達成するプロセスは好きだが、目的を達成してしまうことは好まない。だから目的はいつもプロセスのまま道半ばで終わってしまうのだ、と。
 共産主義社会も、これを人類社会の一つの到達点として見れば、そこへ至る過程は一つの「道」と言えるのであるが、ここで従来提示されてきた共産主義への道を大別してみると、次の三つに分かれる。

○第二の道:社会主義から共産主義へ  
 これは旧ソ連及びその影響下にあった諸国が当初辿ろうとした道であり、資本主義が未発達な段階から始めて、国家に全生産手段を集中させる社会主義=集産主義の段階を経て共産主義に至るのだと宣伝されていたが、まさしく道半ばで挫折し、現在ではすべて放棄されてしまった。総本山ソ連とその最も忠実な同盟国東ドイツでは、国自体が消滅してしまったことで、この道は完全に破綻したとみなされている。

○第三の道:社会主義から(名目)共産主義へ  
 これは第二の道と決別した西欧共産党(中でもイタリア共産党)によって志向された道であり、資本主義の高度な発達という現実の壁にぶつかり、資本主義議会への参加を通して事実上資本主義へ合流していく道である。「ユーロコミュニズム」とも称されたが、その実態は道半ばでの断念であり、名ばかりの共産主義への道である。  
 他方、当初はソ連にならい第二の道を歩んだ中国共産党は、「社会主義市場経済」のドクトリンの下、社会主義に市場経済を埋め込むという方向へ舵を切って相当な成果を収めてきた。これも暗黙のうちに資本主義へ合流する第三の道の中国版という趣意で、「チャイノコミュニズム」とも呼び得るが、実態は共産主義の棚上げである。

○第一の道:資本主義から共産主義へ  
 これは資本主義が高度に発達し切ってその限界に達した時、共産主義社会への移行が開始するというマルクスが本来提示していた共産主義への道である。

 このように第一の道を最後に掲げるのは順不同にも思えるが、実はこれこそが世界で文字どおりにはまだ試行されたことすらない道であり、まさに本連載が提唱する道でもあるのである。その意味で、あえてこれを最後に持ってきた次第である。  
 その点、第二の道は第一の道をショートカットしようして失敗、第三の道は第一の道を回避して実質上資本主義への道に合流したのだとも言える。その意味で、第一の道こそ、共産主義への本道なのである。それだけに至難の道であり、至難だからこそ、第二、第三の道への誘惑も生じたのだろう。  
 筆者自身、共産主義社会の実現可能性について決して無垢な楽観を抱いているわけではないことを告白せざるを得ない。人類が数千年をかけて構築してきた貨幣経済と国家を廃するという道は、決して平坦ではないからである。それを可能とするには、通常的な意味での意志とか努力ではなく、生物学的な意味での新たな「進化」を要するのかもしれない。  
 そうした人類の新たな進化を促進するのは、他の生物と同様、生息環境の変化である。現在、悪化の一途を辿る地球環境に適応していくためには、小手先の技術的な「環境対策」ならず、共産主義への道が唯一本質的な打開策であるという理に世界の大半の人々が気づいた時、共産主義への本道が真剣に追求されるであろう。  
 本連載は「その時」―筆者の見通しでは半世紀以内には到来し得る―に備えたある種の設計図であって、福音書のようなものではない。あくまでも将来の共産主義社会を見通すためのたたき台となる設計図である。  
 そもそも共産主義は一人の教祖的人物が説示する教義のようなものではあり得ず、皆で協力し合いながら未来を創り出していく、それ自体が共産的な共同プロジェクトであるからして、共産主義に経典のような教義書はそぐわない。  
 そうした意味では、本連載をたたき台としながら、その内容を骨抜きにしたり、歪めたりするのでなく、改良・更新し、さらに凌駕していくような理論と運動が生まれることを、あと半世紀はとうてい生きられない筆者としても大いに期待したいところなのである。

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