ザ・コミュニスト

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死刑廃止への招待(第1話)

2011-08-20 | 〆死刑廃止への招待

たとえ凶悪犯罪者であろうとも、拷問や身体刑を科することが許されないならば、死刑を科することはそれ以上に許されないはずである

 死刑廃止論は長らく「人道」を旗印にしてきましたが、どうも大げさな感じがしなくもありません。「凶悪犯罪者といえども、生命を剥奪するのは人道に反する」というのがその典型的な人道論的論拠なのですが、これに対しては、死刑存置論側から、「凶悪な犯罪によって罪のない人の生命を奪った者に人道的配慮など必要ない」とか、果ては「凶悪犯罪者を擁護する死刑廃止論者はかれらの同類だ」などといった罵声も浴びせられてきました。
 たしかに、人道というような大風呂敷を広げるよりも、もう少し小さな包みを広げてみようと思います。それは、人間の身体性ということに関わります。

 今日、理性的な死刑存置論者であれば、たとえ最低の凶悪犯罪者であろうと、拷問や手足の切断、目潰し、去勢等々の身体刑にかけることは否定されることと思います。日本でも近世まで存在した拷問・身体刑は明治維新後に廃止され、日本国憲法36条でも「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」と明示されているところです。
 もっとも、警察署や刑務所での拷問の事実が時折発覚することはありますが、これは明白に憲法及び刑法にも違反する公務員犯罪に当たります。身体刑に至っては、100年以上の歴史を持つ現行刑法上全く法定されていませんし、超法規的に身体刑が行われたという話も耳にしたことがありません。
 こうして、日本では公式の制度としての拷問・身体刑は完全に姿を消して久しいわけです。要するに、公権力が罪を犯した人の身体を傷つけることは許されないというルールは、国内法としては早くから確立されていると言えます。
 この点、国際法のレベルで拷問・身体刑禁止に関わる国連条約として、「拷問及びその他の残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い又は刑罰を禁止する条約」が採択されたのはようやく1984年のことにすぎませんから(1987年発効)、拷問・身体刑の禁止に関して、日本は国際社会に先駆けて取り組んできたとも言えるのです。ところが、その日本が死刑については極めて頑強に維持しているのは、一つの矛盾ではないでしょうか。
 つまり、生命を侵害しない限度で身体を傷つける拷問・身体刑は許されないが、それを超えて生命を侵害する死刑は許されるという矛盾です。反対に、生命を侵害する死刑は許されないが、生命を侵害しない限度で身体を傷つける拷問・身体刑は許されるという論理ならば―賛成はできないものの―まだ理解はできます。
 このように、「犯罪者を殺すのはいいが、傷つけるのはいけない」というのは価値の転倒と言わざるを得ないのです。これを転倒とは思わない方はひょっとすると拷問・身体刑と死刑とは全く別個の処分であって比較の対象とはならないと考えているのかもしれません。
 しかし、それはいささか形式論にすぎます。主として被疑者を自白させるために行われる拷問はともかくとして、身体刑は刑罰として死刑と共通した性格を持っています。実際、人の身体を侵害することなしに死をもたらすことはできませんから、死刑は必ず身体刑を内包しています。
 例えば、日本における唯一の死刑執行方法である絞首は、受刑者をロープで吊り下げ、脊髄の損傷または気管の圧縮によって死に至らしめるものです。また、米国における死刑執行方法として主流を占める致死薬注射も、心肺停止を引き起こす致死薬を注射することによって受刑者を中毒死させるものですから、身体に針を刺す注射という手段を含め、やはり一種の身体刑を内包する死刑執行方法なのです。
 一方、手足の切断など本来の身体刑は生命を侵害しない限度で身体を傷つける刑罰ですが、身体を損傷するために、結果として出血多量や傷口からの細菌感染などにより受刑者が死亡してしまう危険を伴い、実際、今日でも身体刑を存置している諸国(主にイスラーム諸国)では身体刑受刑者の死亡例が跡を絶たないと言われています。
 このように、死刑は必然的に身体刑を内包し、身体刑は結果的に死刑に転化していくという意味で、両者は密接不可分の関係に立っているわけです。そう考えると、身体刑は許されないが死刑は許されるとの理屈はやはり逆立ちしており、身体刑が許されないならばそれ以上に死刑は許されないと考えるのが首尾一貫していると言えるのです。

 もっとも、身体刑は身体的苦痛が伴うのに対して、現代の死刑は執行方法が工夫されているためほとんど苦痛なしに瞬時的に死をもたらすことができるのだから、“人道的”とさえ言えるのではないか、との反問があるかもしれません。
 実際、薬物注射では初めに催眠剤を注射して眠らせておいたうえで致死薬の注射に入るため、ほとんど苦痛のない一種の“安楽死”だとさえ宣伝されています。日本の絞首刑にしても、特殊な装置にロープで吊り下げて瞬時的に死に至らしめるもので、単純に「首を絞める」のとは異なり、受刑者にはほとんど苦痛はないと説明されます。
 とはいえ、公式説明とは違い、実際には死刑執行の「失敗」により受刑者が苦しむ場合もあるとされ、米国ではそうした理由での違憲訴訟が相次いでいたのですが、合衆国最高裁判所は2008年の判決で改めて死刑の合憲性を確認しています。
 しかし、仮に瞬時的に死をもたらす全く無痛の死刑執行方法があり得るとして、それならば“人道的”なのでしょうか。もしその理屈が成り立つならば、身体刑でも無痛であれば許されるということになるでしょう。すると、例えば麻酔をしたうえで手足を切断するという方法によれば身体刑も許されるのでしょうか。
 この点、日本国憲法36条にいう「残虐な刑罰」とは、最高裁判所によれば「不必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰」と定義されています。ここでは「苦痛」の存在を要件とする解釈が示されていますので、これを文字どおりにとると、先の例のように麻酔をしたうえで行われる手足の切断などは「残虐な刑罰」に当たらないことになってしまいそうです。
 憲法36条の技巧的な解釈論としてはそれでよいのかもしれませんが、同条の前提にある人間の身体の不可侵性というルールは、苦痛のあるなしにかかわらず、およそ公権力は人間の身体に直接手を下してはならないというルールです。それは今日、公権力行使の重要な限界を画する基本的人権に関わる準則として確立されています。
 従って、憲法解釈はともかくとして―納得はできませんが―、たとえ苦痛がゼロであっても身体刑は許されず、よって死刑も許されないと考えるのが筋だと思います。

 とはいえ、身体の不可侵性というようなルール自体が元来“きれいごと”にすぎず、凶悪犯罪者の身体など八つ裂きにでもしてやるがよい!というような声もどこかで通奏低音的に聞こえてくるような気がします。
 これは、ある意味で文明というパンドラの箱を開けようとすることです。人間の身体の不可侵性というルールは文明の進歩を示すものですが、そんな凶悪犯罪者のごとき人間の屑を擁護しようとする“文明”こそ間違っているのだという本音も社会には伏在しているのでしょう。
 実際、率直にも、今日まで身体刑も死刑も存続させている国があります。そうした国を反文明的と蔑むことは適切な態度ではないですし、死刑存置国を野蛮国呼ばわりすることも憚られます。ここにはやはり、後に扱う「文化」の問題が介在していることはたしかでしょう。従って、文明/非文明という二分法で単純に割り切ることは困難です。
 ともあれ、日本国憲法はまぎれもなく身体の不可侵性を志向しており、制度上も拷問・身体刑を認めない文明的な方向を目指してきたのですから、パンドラの箱は密閉されているのです。そうであれば、その延長的論理で死刑廃止を導くことも決して難しいことではないのではないでしょうか。

 従来、死刑廃止はとかく「生命の尊重」という理念から「人道」の問題としてとらえられてきました。死刑とは死を強制する、つまりは生命を剥奪する刑罰である以上、そうしたとらえ方も間違いではないのですが、生命を身体から分離してとらえるのはいささか観念論的でした。
 人間の生命活動は身体を物質的な土台として初めて成り立つものですから、生命の尊重の前提は人間の身体性の擁護でなければならないのです。そういう意味で、死刑廃止を人間の身体の不可侵性という視座から理由付けし直してみると新たな視界が広がっていくのではないでしょうか。

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良心的裁判役拒否(連載第1回)

2011-08-20 | 〆良心的裁判役拒否

はしがき

 本連載タイトル『良心的裁判役拒否』を正しくお読みいただけたでしょうか。難読漢字はありませんが、ポイントは「裁判役」。
 これを「さいばんやく」でなく、「さいばんえき」とお読みになれた方は相当な方でしょう。本連載をお読みになるまでもなく、すでにその内容をほぼ理解しておられる方だと思います。
 残念ながら、「さいばんやく」と読んでしまわれた方も、裁判員制度という新しい制度のことはご存じで、そのことが頭に浮かんだかもしれません。
 本連載はその裁判員制度を主題としていますが、ただ単に制度を批判することに主眼があるのではありません。そういう本・論稿ならすでにいくつも出ています。本連載は、裁判員制度の下で一般国民(有権者)に課せられるようになった新たな義務としての「裁判役」を自己の良心に従って拒否しようとするに際しての実践的なガイドとして企画されたものです。

 裁判員制度は、死刑が法定されている罪に係る事件を筆頭とする重大凶悪事件を中心に、くじで選ばれた一般国民が裁判官とともに審理・判決にのぞむ制度として2004年に制定され、5年間の周知期間を経て2009年5月より施行された新しい刑事司法制度です。
 本文でも詳しく見るように、この制度の下では、当局に勝手にくじで引き当てられた有権者は原則として裁判員としての役務を果たさなければならず、正当な理由なくして拒否すれば最大で10万円の過料(行政罰)の制裁が科せられます。
 こうした仕組みによって、日本国民は突如として新たに重罪裁判という課役を法的に負わされるようになったわけです。本連載ではこうした課役のことを「裁判役」と呼びます。
 「裁判役」を「さいばんえき」とお読みになれた方は、おそらく「兵役」という戦前の日本にもあり、現在でも多くの諸国に残されている軍事動員制度のこともご存じと思います。実際、「裁判役」は「兵役」に等しい性格を持っています。これは決して大げさな比喩ではなく、本文でも見るように本当にそうなのです。
 それだから、兵役と同様に、「良心的拒否」ということが問題となります。実際、制度施行前から、各種世論調査等でも「他人を裁きたくない」という理由で裁判員制度に否定的な意見は少なからず表出されていましたし、識者の間からも「隣人に隣人を裁かせる残酷な制度」という厳しい批判が出されていたところでした。
 こうした残酷さ―と言って悪ければ過酷さ―は、死刑制度を完全に存置したまま死刑判決にも裁判員を関与させる特異さによっていっそう助長されています。言わば、隣人をして隣人に対して死を命じさせる制度なのです。
 裁判員制度を推進してきた政府・法曹界は裁判員制度を、欧米に広く見られる一般市民による司法参加の制度である陪審制や参審制になぞらえて説明し、民主的な司法制度だとして正当化を図ってきました。しかし、これも本文で分析するように、裁判員制度と陪・参審制とは非なるものです。両者を意識的に混同させる論理は一種の詭弁なのです。
 本連載ではこうした詭弁を見破り、一般国民を司法資源として動員する「司法的兵役」の制度にほかならない裁判員制度を単に「批判する」のではなく、「拒否する」市民的戦略を探求していきます。
 もう始まってしまったのだからとあきらめたり、国家の強制的制度だからとひるんだりする必要はありません。自己の良心に従い、不正に手を貸すことを拒む良心的拒否は今日の世界では基本的人権の一つとして明確に位置づけられており、法的根拠も見出せるからです。ほんの少しの勇気があれば大丈夫です。

 本連載は、裁判員制度構想を知ったときから強い疑問を抱いた筆者が制度施行直前に書き上げ、某商業出版社に持ち込んでみたところ、(当然と言うべきか)にべもなく却下・返送されてきた原稿を再検討し、濃縮したうえで連載用に書き改めたものです。商業出版の道を閉ざされたことでかえって内容を凝縮的に深めるチャンスが与えられたことに感謝すべきなのでしょう。
 本連載が良心派市民の方々のお役に立てることを願っています。

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