序論(続き)
三 物心複合史観
鳥瞰的歴史観は世界歴史を平板な景色のように眺めるのでなく、文明化した人類の社会的活動の動態として把握するのであるが、その場合に歴史の動因を何に見るかということに関して一定の歴史哲学を持つのである。
この点、半世紀前であれば、歴史の動因は物質的生産力にあり!と答えておけば「進歩的」と見えたのであるが、今日では「退歩的」と却下されかねない。たしかに今日、かかる唯物史観を公式的な形で信奉する人はほとんどいないであろう。しかし、ファッション感覚で時代遅れと却下するのでなく、唯物史観の問題点を内在的に批判しようとする試みは多くない。
思うに、唯物史観の大きな問題点の一つは生産力発展の条件如何が十分究明されていないことである。実際、生産力発展の条件は何であろうか。
これについてはいろいろの答えがあると思うが、最も明快なのは自然環境条件である。なかでも地理的条件は決定的である。例えば、農業も工業も山岳地帯や砂漠地帯では発達しない。それらは、基本的に平野部で発達する産業である。しかし砂漠地帯でも商業なら発達し得ることはアラビア半島や中央アジアの例が示している。一方、山岳地帯では交通・通信の限界から商業も発達せず小規模農牧業が主体となり、生産活動にとっては最も過酷な地理的条件である。その代わりにそうした環境下ではおおむね自給自足的な共同体が保存されやすいのである。
こうした固定的な自然環境条件に加え、気候変動とか自然災害のような変動的ないし突発的な自然環境条件も複合的に作用するから、同じ平野部でも、例えば自然災害の多いところとそうでないところでは生産力の発達に格差が生じる。
こういうわけで、唯物史観がどんなに努力しても世界中で普遍的に妥当するような経済発展法則などを抽出することはできず、むしろ一国内部での地域的な不均衡をも伴った不均等発展こそが「鉄則」でさえあるのである。そうであればこそ、古来人類は生産力の発展にとって不利な自国の条件を補完しようとよりよい条件を備える他国を侵略し領土化することを図ってきたのであった。
唯物史観のもう一つの問題点は、自然環境条件によって制約された物質的生産力の発展それ自体は自然の恵みでない以上、いったい何によって促進されるのか、という生産力発展の究極的要因如何が十分解明されていないことである。
これについてのここでの答えは「発明」によるというものである。ただし、ここで言う「発明」とは機械装置のような個々の物質的発明そのものというよりは、そうした個々の物質的発明の土台を成す効率的な生産方法の考案という精神的な「発明」のことである。
例えば、産業革命を促進した動力を利用する各種機械はそれ以前に労働者を一箇所に集約して定型的な作業に当たらせるという新しい効率的な生産方法の「発明」を前提に、そうした作業をより効率化するための手段として発明されたものである。
こうした精神的な「発明」はまた、政治制度のような純粋に精神的な所産の面にも及ぶのであって、例えば選挙された議員によって構成される議会制度は、その純粋型においては資本家を主体とするブルジョワ階級自身が政策決定を主導することを通じて生産様式を維持・発展させることに最もよく奉仕する政治制度として「発明」されたものである。
こうした「発明」とはアイデアであり、精神であるから、「発明」に生産力発展の究極的要因を求めようとするならば、それはもはや単純な唯物史観の枠をはみ出すことになる。実際、「発明」という要素が生産力発展の究極的要因であるとすれば、物質的法則性ばかりでなく、偶然性とか幸運といった不確定的要素が歴史の動因として働く余地は大きいと考えられる。
例えば、19世紀の英国、20世紀の米国が巨大な生産力の発展を示したことは、工業的発展の物質的土台となる良質な平野部を持つという自然的条件に加えて、それぞれの発展を促進する「発明」が偶然にもまたは幸運にも両国で重なったことによると考えられるのである。
とはいえ、ここで唯物史観と完全に縁を切って改めて観念論的反動に走ろうとするわけではない。ここで言う「発明=精神」とは例えばヘーゲルの抽象的な「絶対精神」のようなものとは大いに異なり、もっと具体的に限定された物質的生産力の発展を促すアイデア、言わば物質的精神である。そういう精神の作用の結果として、物質的生産力の発展が歴史を動かしていくのであるが、それは決して一律的な法則に基づくわけではないのである。
結局、始めに戻って鳥瞰的歴史観が前提とする歴史哲学とは、歴史の動因としてこれを物質的生産力の発展を促進する「発明=精神」に求める発明史観、より抽象化して換言すれば物心複合史観であるということになろう。
四 人類社会の前半史と後半史
マルクスは資本主義的生産様式を備える近代ブルジョワ社会をもって人類社会前半史の最後の社会構成体とみなしていた。人類の歴史を現時点よりもっと未来の時点に立ってとらえ返すと、現在は人類社会前半史の最中にあり、マラソンにたとえればまだ中間地点にはさしかかっていないことになる。
この現時点をも含む人類社会前半史もすでに数千年という時間を持っているが、この間の一貫した特徴は、富の追求・蓄積を自己目的とするような、従ってまた商業が導きの糸となるような物質文明を基層としてきたことである。そして、その到達点に資本主義的生産様式とそれを軸に成立するブルジョワ社会体制があるというわけだ。この体制はこれまでに「発明」された先行のどんな体制よりも富の効率的な蓄積に適している点において「最終的」なのである。
他方、それと並行しながら、国家という政治的単位で人間の集団化を図ることが人類社会前半史のもう一つの特徴である。これも権力という―究極的には戦争によって担保された―無形的な財の獲得・強化を目指す点で、やはり物質文明に根ざしており、その到達点に主権を戴く今日の国民国家体制があるのである。
このように、富/権力を最高価値とするような物質文明を基層に成り立つ人類社会の前半史とは、所有すること(having)の歴史であり、そこでは富であれ権力であれ、もっと所有すること(more-having)、すなわち贅沢が歴史の目的となるのである。一方で、所有の歴史は、所有をめぐる種々の権益争いに絡む戦争と殺戮の歴史でもある。
そういうわけで、所有の歴史にあっては持てる者と持たざる者との階級分裂は不可避であり、時代や国・地域ごとの形態差はあれ、何らかの形で階級制は発現せざるを得ないのである。それとともに、戦争・殺戮の多発から、戦士としての男性の優位が確立され、社会の主導権を男性が掌握する男権支配制が立ち現れる反面、女性や半女性化された男性同性愛者の抑圧は不可避となる。
こうして現在も進行中である人類社会前半史は、多様な不均衡発展を示しながらも、ほぼ共通して男権支配的階級制の歴史として進行してきたと言える。従って、それはまた反面として、男権支配的階級制との闘争の歴史ともならざるを得なかった。古代ギリシャ・ローマの身分闘争、中世ヨーロッパや東アジアの農民反乱・一揆、近世ヨーロッパのブルジョワ革命、近現代の労働運動・社会主義革命、民族解放・独立運動、人種差別撤廃運動、女性解放運動、同性愛者解放運動等々は、各々力点の置き所に違いはあれ、そうした反・男権支配的階級制闘争の系譜に位置づけることができるものである。
こうして現在は、マルクスが指摘したとおり、人類社会前半史の最終形態たる資本主義社会の中でもすでに晩期に入っているわけであるが、そこを通過した人類社会の後半史とはいったいどのようなものになるのであろうか。
この問いはもはや歴史を超えた未来学に属する問題であるから本来は本連載の対象外であるが、あえて禁を破って筆者のいささか希望的な観測も交えて予測するとすれば、人類社会後半史は所有の歴史に対して存在(being)の歴史となるであろう。それはもっと所有すること・贅沢ではなく、よりよく在ること(better-being)・充足が目的となるような歴史であり、従ってまた戦争と殺戮の歴史に代わって非戦と共生の歴史ともなるであろう。
もっとも、そのような人類社会後半史にあっても人間社会を維持していくためには物質的生産活動は不可欠であるから、物質文明が完全に放棄されるようなことはあるまい。とはいえ、来たるべき新たな物質文明はもはや富の追求を第一義とするようなものではなくなるであろう。
そのときにいかなる生産様式が「発明」されるか、ということに関しては歴史を主題とする本連載ではさしあたり空白として残しておかざるを得ない。
賢人は過去を、凡人は現在を、偉人は未来を語る。
―不肖筆者