理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く
第1章 「裁判役」という課役
(1)「犯罪との戦い」への召集
はしがきで、裁判役には兵役と等しい性格があると述べました。まず冒頭からこのことを検証してみます。
このように断ずる根拠をひとことで言えば、裁判員制度は「犯罪との戦い(war on crime)」という法イデオロギーに基づいているからです。このことは同制度の制定の経緯と基本構造がはっきりと示しています。
まず制定の経緯から見ると、裁判員制度とは元来、1999年6月に政府が設置した「司法制度改革審議会」(以下、単に「審議会」という)が2001年6月に当時の小泉内閣に提出した意見書の提言に基づいて創設されたものですが、同意見書では制度設計の基本方針として、初めから対象事件を「国民の関心が高く社会的にも影響が大きな法定刑の重い重大事件」と限定していたのです。
「法定刑の重い重大事件」と言えば、死刑存置国の日本の場合、死刑を法定刑に持つ罪が筆頭に来ることは明らかです。加えて、死刑に次ぐ無期懲役刑か少なくとも長期の有期懲役刑が科せられるような重大事件が対象となり、結局、その大半は故意による生命侵害犯を中心としたいわゆる凶悪事件が占めることになります。
このように、裁判員制度が初めから重大事件に対応するための特殊な制度として構想されたのは、当時の日本の政治・経済状況と深く関わっています。
実は1999年に発足した先の審議会は、その前年に当時の与党・自由民主党が発表した『二十一世紀の司法の確かな指針』と題する報告に基づいて設置された機関ですが、同報告では21世紀に向けた新たな司法改革戦略の視座として、「司法は、安全な国民生活の確保と公正で円滑な経済活動という国家の基礎を支え、活力ある社会を維持するための基盤をなす」と規定していました。
このテーゼ前半の「安全な国民生活の確保」というレトリックは、言い換えれば司法を「犯罪との戦い」の拠点とすることを示唆しているのです。
どうして当時の与党・自民党がそんなことを言い出したかと言えば、90年代末という時期はちょうど90年代半ばに起きたオウム真理教教団による一連の凶悪事件、特に日本の「安全神話」を崩壊させたと言われた二つの化学テロ事件(松本及び東京地下鉄サリン事件)の衝撃がまだ冷めやらぬ時期であったことに加え、経済的にもいわゆる「失われた十年」の只中で失業率の急激な悪化の一方で、凶悪犯罪の増加という負の現象が顕著化した時期に当たっていたためと考えられます。
そういう不穏な情勢の中で、当時の与党・政府が社会体制の引き締めを図るため、司法を拠点とした「犯罪との戦い」を発動しようと考えたことは容易にみてとれます。
ただ、それがなぜ自民党報告では一言もされていなかった裁判員制度という形で結実したかについては法曹界の思惑も絡んだ複雑な事情があり、このことについては後で改めて取り上げることにします。
ともかく、こうして「犯罪との戦い」という法イデオロギーに基づく司法戦略の要として立ち現れた裁判員制度は、その基本構造にもはっきりとその法イデオロギーが反映されているのです。
実際、審議会が指示したとおり、同制度は(a)死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件と(b)裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる罪(法定合議事件)であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るものという二つの極めて限られたカテゴリーに整理された重罪事件にのみ適用されます。
そして、「戦い」である以上、敵たる被告人の立場は考慮されません。この点、審議会の意見書がきっぱりと「裁判員制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって重要であり、裁判制度として重要である」と断じているとおり、先の二つのカテゴリーに該当する事件である限り、被告人はこの制度の適用を回避することは許されません。
そのうえ、一般国民たる裁判員の時間的・精神的負担への配慮を口実に、裁判員裁判の審理は平均して数日程度の超短期が予定され、被告・弁護側の争う権利を極力制約するばかりか、一般国民の意識が反映された一審判決の尊重を口実に、上訴は極力棄却するという運用指針も最高裁から示されています。要するに、重大事件を迅速に処罰することを通じて犯罪を鎮圧するというまさに「戦争」の論理なのです。
こうした刑事裁判の本則を大きく改変する制度にふさわしく、同制度は刑事裁判手続を定める一般法である刑事訴訟法ではなしに、完全に別立ての特例法「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下、裁判員法という)で定められているため、裁判員裁判は重罪事件に特化した特別治安裁判のような性格を強く帯びているのです。
こうした「犯罪との戦い」の司法的現場へあなたや私のような一般国民が召集され、最大で死刑を含む厳罰判決を下す任務を課せられるのが裁判員制度なのですから、それは単なる比喩でなしに「兵役」―司法的兵役―と呼んでもさしつかえないのではないでしょうか。
(2)憲法違反の裁判役
ところで、日本国憲法にはこうした裁判役の根拠となるような条文は全く見当たらないのですが、果たして裁判役のように一律的な「国民の義務」が憲法上認められるのでしょうか。
この点、憲法はその第三章「国民の権利及び義務」の中で、納税(30条)、子女教育(26条2項)、勤労(27条1項)という三つの義務を定めていることから、「国民の三大義務」と呼ばれることもあります。裁判役はこれに四つ目の義務を追加したことになりますが、そんなことが許されるかどうかは大きな憲法問題です。
三大義務が定められている憲法第三章は俗に「人権カタログ」とも呼ばれ、そこでは憲法上保障される基本的人権の種類・内容とそれらをやむを得ず制約する場合の根拠が示されています。
基本的人権を制約する際の根拠としては、12条や13条に定める一般条項的な「公共の福祉」と、三大義務のように一定の行為を強制する義務付けの二種があるわけですが、一般条項的な「公共の福祉」による制約とは異なり、義務付けの方は一定の行為を意に反しても一律的に強いるという点で基本的人権を拘束する度合いが高いため、憲法は許される義務を限定的に列挙したものと理解するべきではないでしょうか。
そうだとすると、憲法は明示的に認めている三大義務以外の義務の勝手な追加を許さない趣旨だと読むべきことになり、裁判役のような制度はむしろ憲法18条後段で禁止される「意に反する苦役」として憲法に違反すると解すべきなのです。
もっとも、裁判員制度を推進してきた国やこの制度を支持する人たちはそうは考えておらず、憲法上根拠のない国民の義務を勝手に創設することも許されており、裁判員の任務も「意に反する苦役」に当たらず、憲法に違反しないと理解しているのでしょうが、そう断ずる根拠は何なのでしょうか。
(一種の「ウルトラ解釈」として、27条1項の「勤労の義務」に裁判役も含まれるという解釈もあり得ますが、しかし、同条項は始めに「勤労の権利」を前提とするので、納税や子女教育のように、義務違反に対して直接に罰則は科せられないことに注意すべきです。)
そもそも制度設計の過程でも、こうした根本的な憲法問題自体、ほとんど検討された形跡が見当たらないのは不可解と言うほかありません。
うがった見方であることを承知で言えば、「犯罪との戦い」の制度である裁判員制度は、憲法も棚上げした特例的な一種の戒厳制度であると理解すると、その超憲法的な出自にもうなづけるというものです。
〔追記〕
最高裁判所大法廷は本年11月16日、裁判員制度は憲法に違反すると主張した被告人の上告を棄却する判決で、同制度を合憲とする初の憲法判断を示しました(全員一致)。本来中立的な立場で、あらゆる国家制度の違憲審査を担う自らの職責に反し、裁判員制度のPRを積極的に行ってきた最高裁が今さら違憲判決など出さないであろうことは予測されていたことでした。