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英国労働党史(連載第7回)

2014-09-17 | 〆英国労働党史

第3章 英国式半社会主義

3:半社会主義革命(1)
 第二次大戦でナチスドイツが降伏し、英国を含む連合国の勝利が見え始めた1944年になると、労働党は戦争終結後を見据え、35年以来開催されていなかった総選挙の早期実施を求め、保守党との連立を解消することを決めた。来たる総選挙は単独での政権獲得を目指し、保守党と正面対決するという方針である。
 チャーチル首相は日本の降伏まで連立を維持すべきとの意見であったが、労働党の拒否姿勢や保守党内からの異論があり、チャーチルは日本降伏前の45年6月に解散総選挙に踏み切った。10年ぶりとなる総選挙で、アトリー労働党は「未来に向き合おう」をキャッチフレーズに、マルクスではなく、ケインズの理論に立脚した完全雇用や政府が資金拠出する国民医療制度の創設などを訴えた。
 対するチャーチル保守党は、こうした労働党の公約を社会主義的であるとして非難し、ナチスになぞらえるなどのネガティブキャンペーンすら展開したが、これは完全な裏目であった。総選挙の結果は保守党の惨敗、空前の393議席を獲得した労働党が史上初めて単独で衆議院の過半数を制する圧勝となった。これにより、アトリーを首班とする労働党の完全な単独政権が発足する。
 この選挙結果は多くの選挙ウォッチャーの予想を超えるものであったが、労働党の勝因は大戦で戦勝国となったとはいえ、海外投資の激減に戦争負債と英国自体は疲弊し、実質上は敗戦に等しい国力衰退が明瞭となっていた中、戦勝の功績ばかりを強調するチャーチル保守党よりも控えめなアトリー率いる労働党の革新的な公約に大衆がひきつけられたということが考えられる。
 そうした意味では、この労働党の大勝利とそれに続く大規模な社会改革をもたらした1945年総選挙は、「投票箱を通じた革命」と言うべき出来事に数えることができると言えよう。

4:半社会主義革命(2)
 かつて「揺りかごから墓場まで」という標語で評された英国型福祉国家の基礎は、45年から51年まで続いた比較的短いアトリー労働党政権の時代にほぼすべてが出揃っていたと言ってよい。
 ただ、アトリー政権の政策は単なる福祉国家政策にとどまらず、より踏み込んだ社会主義的施策を含んでいた。すなわち、銀行、石炭、鉄鋼、電気、ガス、運輸に至る基幹産業の国有化である。その結果、アトリー政権が終わった51年までに英国経済の20パーセントが国有化された。
 ソ連のような中央計画経済こそ導入されなかったが、政府は戦時統制経済のほとんどを維持することで物財と労働力の配置をコントロールできたため、アトリー労働党が重要な公約に掲げた完全雇用はほぼ達成された。むしろ労働力は不足気味で、アトリー政権期に失業率が3パーセントを越えることはほとんどなかった。この間、インフレも抑制され、生活水準も向上するなど、経済は好転していったのである。
 アトリー政権期に導入された政策の多くは、政権退陣後徐々に覆され、最終的には1980年代のサッチャー保守党政権期の「保守革命」で解体されるが、今日でも残されているものとして国民医療制度(National Health Service)がある。これは、財源の大半を健康保険ではなく、税収による一般財源でまかなう公費負担医療制度の一つで、実質的な国営医療制度である。まさに「揺りかごから墓場まで」ほぼ無料で医療が受けられる制度として、これだけは保守革命でも廃止できなかった英国のシンボルである。
 こうしたアトリー政権の施策は、アトリー自身も青年期に影響を受けたフェビアン協会の社会改良主義に基づくものであり、下野したチャーチルがますます声高に非難したほど社会主義的でもなく、まして共産主義的ではなかったけれども、生産手段の公有化を進め、経済の相当部分を国有化した限りでは、単なる福祉国家を超えた「半社会主義」と呼ぶべき独特の体制に仕上がっていった。
 奇跡的だったのは、多岐にわたった大胆な改革を51年総選挙で再び労働党が下野するまでの6年ほどでやり遂げたことであった。それを可能にしたのは、カリスマ性には欠けるが知的で、実務能力に長けたアトリー首相の手腕だけでなく、大戦直後の復興期という状況と先の見えない大衆の不安、そして社会主義がまだ魅力的な未来の選択肢とみなされていた思想状況であっただろう。


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