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晩期資本論(連載第32回)

2015-03-10 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(7)

 マルクスは、本源的蓄積の典型例としてイギリスの事例を詳細に取り上げている。そこでは、農民からの収奪→被収奪者抑圧→資本家的借地農の生成→国内産業市場の形成→産業資本家の生成という大きな図式が作られている。これを前提として、マルクスは「資本主義的蓄積の歴史的傾向」―資本蓄積の歴史法則―を導き出そうとする。

直接的生産者の収奪は、なにものをも容赦しない野蛮さで、最も恥知らずで汚らしくて卑しくて憎らしい欲情の衝動によって、行なわれる。自分の労働によって得た、いわば個々独立の労働個体とその労働諸条件との接合にもとづく私有は、他人の労働ではあるが形式的には自由な労働の搾取にもとづく資本主義的私有によって駆逐されるのである。

 本源的蓄積の時期には、国家権力を使った労働者抑圧策が取られる。「興起しつつあるブルジョワジーは、労賃を「調節」するために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の一つの本質的な契機なのである」。
 もっとも、中間蓄積期には労働運動の成果として労働基本権の思想も浸透し、国家もやむを得ず労働法による労働者の保護という政策を導入したが、労働運動が退潮した晩期資本主義になると、労働法の「規制緩和」という非抑圧的なやり方で国家権力を利用し、再び労賃の「調節」を図っている。

国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自身のうちに自動的累進の萌芽を孕んでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。

 マルクスは、「公債は本源的蓄積の最も力強い槓杆の一つになる。」とし、国債が証券投機や近代的銀行支配、さらには国際的信用制度を発生させたことを指摘している。そして、「国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物となったのである」。徴税もまた刑罰で担保された国家権力の利用である。
 こうして国債濫発による多額の負債とその償還に充てるための増税というパターンは現代日本において典型的に現れている。特に、上記命題にいう「最も必要な生活手段にたいする課税」は今日、消費税という形で労働者に転嫁されており、これが自動的に累進していく法則も現代日本によく当てはまっている。とうに本源的蓄積期を過ぎた日本で、こうした時代逆行的な手段が採られていることになる。

この転化過程が古い社会を深さから見ても広がりから見ても十分に分解してしまい、労働者がプロレタリアに転化され、彼らの労働条件が資本に転化され、資本主義的生産様式が自分の足で立つようになれば、そこから先の労働者の社会化も、そこから先の土地やその他の生産手段の社会的に利用される生産手段すなわち共同的生産手段への転化も、したがってまたそこから先の私有者の収奪も、一つの新しい形態をとるようになる。今度収奪されるのは、もはや自分で営業する労働者ではなくて、多くの労働者を搾取する資本家である。

 マルクスはここで生産手段の共有段階へといささか先走っているが、ひとまず資本主義が独り立ちした段階では、「資本主義的生産そのものの内在的諸法則」、すなわち「諸資本の集中」によって、「少数の資本家による多数の資本家の収奪」が起きる。つまりは、競合資本の競争と淘汰・集中である。
 こうした集中化とともに、「世界市場の網のなかへの世界各国民の組入れが発展し、したがってまた資本主義体制の国際的性格が発展する」。現況はこうしたグローバル資本主義の段階に到達している。

この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減っていくのにつれて、貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取はますます増大していくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織される労働者階級の反抗もまた増大していく。資本独占は、それとともに開花し、それのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それが資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。

 『資本論』の中でも特に有名なこの一節で示唆されているのは、プロレタリア革命である。しかし一方で、次の命題はこれと矛盾する側面がある。

資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統、慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産過程の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。

 現状はまさに、労働者階級の大半が教育や伝統、慣習によって資本主義的生産様式の諸要求を自明な自然法則として認めている時代であり、労働運動も資本主義の枠内での賃上げ闘争にすぎない。時折、反資本主義的なメッセージを携えた大衆行動が見られても局所的なものにとどまり、「資本主義的私有の最期を告げる鐘」とはならない。
 ただ一方で、マルクスは資本主義的生産の発展により、「ますます大規模になる労働過程の協業的形態、科学の意識的な技術的応用、土地の計画的利用、共同的にしか使えない労働手段への労働手段の転化、結合的社会的労働の生産手段としての使用によるすべての生産手段の節約」といった共産主義社会の萌芽が桎梏的に資本主義社会の内部に生じ、それが内爆的に「資本主義的な外皮」を打ち破って共産主義社会へ至るという独特の筋道を描いていたのであるが、これについては『資本論』第三巻まで検証した後に、改めて立ち返ってくることにしたい。

☆小括☆
以上、「六 資本蓄積の構造」では、『資本論』第一巻を総括する最終の第七篇「資本の蓄積過程」を参照しながら、資本蓄積が高度化・グローバル化した晩期資本主義の特質を検証した。


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