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晩期資本論(連載第26回)

2015-02-09 | 〆晩期資本論

六 資本蓄積の構造(1)

 『資本論』第一巻は、全体として「資本の生産過程」に焦点を当てており、全巻の土台を成す巻であるが、その最後を飾る第七篇は「資本の蓄積過程」と題され、第一巻の総まとめとして、マルクスによれば剰余価値の生産を軸とする資本蓄積の構造が、より抽象度を増す形で、叙述されている。

生産過程は、その社会的形態がどのようであるかにかかわりなく、連続的でなければならない。社会は、消費をやめることができないように、生産をやめることもできない。それゆえ、どの社会的生産過程も、それを一つの恒常的な連関のなかで、またその更新の不断の流れのなかで見るならば、同時に再生産過程なのである。

 これは、生産様式のいかんを問わず、普遍的に妥当する定理である。逆言すれば、再生産過程が途絶したとき、その社会は滅亡する。「もし生産が資本主義的形態のものであれば、再生産もそうである」。その資本主義的再生産とはいかなるものか―。

・・・労働者自身は絶えず客体的な富を、資本として、すなわち彼にとって外的な、彼を支配し搾取する力として、生産するのであり、そして資本家も絶えず労働力を、主体的な、それ自身を対象化し実現する手段から切り離された、抽象的な、労働者の単なる肉体のうちに存在する富の源泉として、生産するのであり、簡単に言えば労働者を賃金労働者として、生産するのである。このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである。

 マルクスは、同じことをもう少し抽象度を上げて、「彼(労働者)がこの過程(生産過程)にはいる前に、彼自身の労働は彼自身から疎外され、資本家のものとされ、資本に合体されているのだから、その労働はこの過程のなかで、絶えず他人の生産物に対象化されるのである。」とも述べている。
 この定理の中には、「自己疎外」という一昔前に流行語として風靡した術語が見えるほか、別の箇所では「他人の不払労働の物象化」という表現で言い換えられた「物象化」の概念も含まれている。
 講学的には、しばしばマルクス哲学の「疎外論」と「物象化論」を区別し、青年期の「疎外論」が壮年期以降の「物象化論」に転回したとのとらえ方もなされることがあるが、両者は実質上同じことを観点を異にして表現しているにすぎないことが上掲箇所から理解される。

・・・社会的立場から見れば、労働者階級は、直接的労働過程の外でも、生命のない労働用具と同じに資本の付属物である。労働者階級の個人的消費でさえも、ある限界のなかでは、ただ資本の再生産過程の一契機でしかない。

 労働者は賃金を自分自身の生活の資に充てるが、それとて、「絶対的に必要なものの範囲内では、労働者階級の個人的消費は、資本によって労働力と引き換えに手放された生活手段の、資本によって新たに搾取されうる労働力への再転化である。それは、資本家にとって最も不可欠な生産手段である労働者そのものの生産であり再生産である」。

個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産とが行なわれるようにし、他方では、生活手段をなくしてしまうことによって、彼らが絶えず繰り返し労働市場に現れるようにする。ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。

 ここで、「生活手段をなくしてしまうことによって」とは、「賃金以外の生活手段」と補わなければ意味をなさないであろう。つまり、まさに労働者を「生かさぬように、殺さぬように」が資本の再生産戦略であり、このような意味において、マルクスは資本主義的賃金労働者を「賃金奴隷」と呼んだのである。ただ、真の奴隷と異なり、賃金奴隷が「自由」な存在者に見える「賃金労働者の自立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されているのである」。

労働者階級の再生産は、同時に、世代から世代への技能の伝達と累積とを含んでいる。このような熟練労働者階級の存在を、どんなに資本家が自分の所有する生産条件の一つに数え、この階級を実際に自分の可変資本の現実的存在とみなしているかということは、恐慌にさいしてこのような階級がなくなるおそれが生ずれば、たちまち明らかになる。

 日本でも、「失われた十年」の間の大量リストラでこうした熟練労働者階級を整理したことの代償が指摘される。ただ、情報化が進んだ晩期資本主義では、熟練技能に頼るべき労働が減少し、大資本ではむしろ未熟練労働者を安く使い捨てにする戦略に移行しており、熟練労働者不足は、今なお熟練労働に頼る中小資本において深刻になるだろう。資本間での格差問題である。

こうして、資本主義的生産過程は、連関のなかでは、すなわち生産過程としては、ただ商品だけではなく、ただ剰余価値だけではなく、資本関係そのものを、一方には資本家を、他方には賃金労働者を、生産し再生産するのである。

 資本主義的再生産の大きな構造をまとめる公理である。ここでも、マルクスは経済的な言葉で、資本主義においては、資本家階級と労働者階級の固定化が必然的であることを政治的に示そうとしている。『資本論』が経済学書の形態を持った政治学書であるゆえんである。


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