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沖縄/北海道小史(連載第5回)

2014-01-02 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行

【7】道南和人支配の始まり
 北海道でアイヌ社会が形成・確立されていくと、アイヌ勢力との商取引関係を持つ有力な和人も増えていった。そうした和人商人の中には、道南地域に定住し、武士化する者も現れた。やがて渡党と呼ばれるようになったかれらは、中央の支配が十分に及んでいなかった道南に館―いわゆる道南十二館―を築き、武将としてしのぎを削るようになる。
 しかし鎌倉幕府の支配力が全国的に及ぶようになると、道南渡党らも津軽地方の土豪もしくは中央派遣の武将で、エゾの統制を委ねられていた安東氏の管轄下に置かれるようになる。安東氏は室町時代も生き延びるが、15世紀前半、南部氏に本拠の津軽を追われると道南に移転し、1456年には配下の有力渡党の中から三名を守護に抜擢し、道南支配を強化した。
 この措置の翌57年に、アイヌの有力族長コシャマインが武装蜂起した。この事件は一和人と一アイヌの口論がきっかけとされるが、タイミングから見ると、安東氏による一方的な道南支配強化による何らかの利害関係の変化が和人と取引関係にあったアイヌ勢力に動揺を与えたことも背景にあったと考えられる。
 いずれにせよ、一時は十二館の大半を落とされるなど窮地に陥ったこの大事変を鎮圧するに当たっては、先に安東氏から守護に任ぜられていた花沢館主・蠣崎季繁の婿養子・武田(蠣崎)信広の功績が大きかった。後の大名・松前氏の実質的な祖となる信広は、義父と同様、若狭武田氏の一族とされ、若狭から移住し、当時は花沢館主・蠣崎氏の客将であったところ、その能力を認められて家督を継いだとされるが、義父ともども武田氏流というのは仮冒の疑いが強い。
 義父の蠣崎季繁も若狭から移住して安東氏の娘婿となるという同様の経歴を持つことからすると、かれらはともに若狭方面から流れてきた商人の出自を持つ渡党にすぎなかったと考えられる。
 ちなみに、本来の蠣崎氏は陸奥で安東氏に取って代わった南部氏の家臣で、陸奥の田名部に拠点を置く武将であったが、コシャマインの蜂起が起きた57年に蠣崎蔵人信純が主君・南部氏に対して反乱を起こして追討され、エゾ地へ逃れるという事件があった。
 この陸奥蠣崎氏と道南蠣崎氏の関係については不明であり、武田信広ははじめ陸奥に移住し、南部氏から田名部の蠣崎という地の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗ったとする史料もあり、錯綜している。
 仮に、陸奥蠣崎氏と道南蠣崎氏が同一とすれば、南部氏に追われて敗走してきた信純と信広は同一人物で、彼は花沢館にかくまわれたが、折からのコシャマインの蜂起を鎮定して安東氏の信頼を勝ち得、安東氏の縁戚でもあった花沢館主の家督を継ぎ、安東氏被官として改名・再生したという大胆な推理も可能であろう。この場合、信広が当初武田姓を名乗ったのは、陸奥蠣崎氏が元来武田姓だったことによるものだろう。 
 いずれにせよ、安東氏の支配下で道南に割拠していた渡党の中から蠣崎氏がコシャマイン事変後、急速に実力を伸ばし、やがて自立化した戦国大名・松前氏へと成長していくのである。


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