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沖縄/北海道小史(連載第8回)

2014-01-14 | 〆沖縄/北海道小史

第四章 強制的近代化の時代

【10】幕末の両辺境
 
 17‐18世紀の沖縄/北海道の両辺境はそれぞれの仕方で幕藩体制に組み込まれ、程度の差はあれ、日本型の封建社会化が進んでいったわけだが、幕末が近づくにつれ、列強の接近に伴う幕藩体制の動揺の波が最初に押し寄せたのは、両辺境であった。
 最初の徴候は、北辺に現れた。18世紀半ば頃から、南下政策を追求していた帝政ロシアが千島列島のアイヌを介する形で、日本との通交を求めるようになってきたのだった。1795年のロシア特使ラクスマンの根室来航及び1804年のレザノフの長崎来航はそのハイライトであった。
 これに対し、対ロシア防衛の必要を痛感した幕府は、当初松前藩がロシア人来航の事実を幕府に報告せず、等閑視する態度を取ったことや、放蕩をもって悪名高かった時の第8代藩主・松前道広への不信もあり、エゾ地の直轄化を図り、1799年に東エゾ地を仮上知したのを皮切りに、1807年には松前藩そのものを陸奥梁川藩へ転封処分とした。 
 こうして旧松前藩領を直轄化して本格的にエゾ地経営に乗り出した幕府は、松前藩とは異なり、アイヌを蛮族とみなし、和人化する政策に転じた。これは、アイヌに対する強制同化政策の最初の一歩であった。
 米作に頼れない松前藩はアイヌ交易で成り立っていたから、アイヌ社会を維持しつつ、政治的統合を抑圧統制する政策を採ったが、幕府はアイヌに対するロシアの影響を排除する目的から、和人への同化に重点を置いたのであった。
 この間、松前藩は復領運動に努め、幕府側でも直轄統治の負担がかさむと1821年、幕府は政策を転換し、いったん松前藩を旧領に復したうえ、陣屋持ちだった同藩に初めて築城を命じて北辺警備の任を負わせるが、54年、日米和親条約締結という一大政策転換を機に、またも幕府の北辺政策が変化する。幕府は55年、再び松前藩領を直轄化するのである。こうしてアイヌ交易の利権も奪われた松前藩は、築城の出費もあり、窮乏した。
 ただ、時の第12代藩主・松前崇広は開明的であり、幕府の信任厚く、要職を経て64年には松前氏としては初の老中に抜擢された。その際、一部旧領の返還も実現し、松前藩は復権するかに見えたが、兵庫開港問題をめぐり開港を強行した崇広が朝廷及び将軍後見職・一橋慶喜と衝突して罷免・蟄居となった末、66年に病没すると、病弱な後継藩主の下、家臣間の対立からクーデターが発生するなど、藩政は混乱を極めた。
 結局、北方辺境領主・松前氏は幕末の北辺政策の二転三転により翻弄された末、維新の混乱の中で凋落していったのである。
 一方、南の辺境・琉球では、中国側宗主が明から清に交替したことを除けば、19世紀半ばに至るまで決定的な大変動は見られなかった。一大転機となるのは、1854年のアメリカ海軍東インド艦隊司令長官ペリーの那覇来航であった。本州の浦賀に先立つ最初の黒船来航である。
 ペリーは王国側の拒絶を押し切って琉球上陸を強行し、首里城に入城する。この時点で、琉球は米国側と修好する意思はなかったが、結局、54年3月に日本との間で日米和親条約が締結されたのに続き、7月には琉米修好条約の締結に至り、那覇が開港された。
 このように、アメリカが日本開国を迫る前提として、当初から琉球に注目し、琉球を戦略的な足がかりにしようとしていたことは、今日に至るアメリカの東アジア政策で沖縄の占める位置を考える上でも、参考になるであろう。
 琉球はこの後、日本と並行する形でフランス、オランダと相次いで修好条約を締結し、日本とともに西欧列強との不平等な外交関係を余儀なくされていく。
 とはいえ、中国清朝と幕藩体制の薩摩藩への二重統属という立場を維持しながら、琉球王国がこうした外交関係を独自に結び得たことは、準独立国としての琉球王国の独異な地位を表している。従ってまた、琉球王国は北辺の松前藩のように幕末の動乱に直接巻き込まれることもなく、比較的平穏に維新を迎えている。
 他方、琉球の日本側宗主であった薩摩藩は、周知のとおり、琉球経由密貿易で蓄積した利益などを基盤に、単なる南の辺境領主を超えた幕末の雄藩となり、若手下級藩士を中心に討幕運動の主役としても勇躍し、明治維新を主導して新政府の支配層に座るという松前藩とは対照的な道をたどった。


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