ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

沖縄/北海道小史(連載第2回)

2013-12-04 | 〆沖縄/北海道小史

第一章 長い先史時代(続)

【3】交易活動の発展
 沖縄/北海道両辺境の狩猟採集経済は長期にわたって持続したとはいえ、その担い手たちは海洋民族でもあったから、アマゾンやニューギニアの密林奥深くに済む先住民たちのように、閉鎖的な自給自足社会のまま持続することはなく、やがて本土との交易活動が活発化する。
 まず沖縄ではおおむね縄文時代晩期(沖縄では前期貝塚時代末)、九州の縄文人たちとの間で沖縄地方が主産地となるゴホウラやイモガイなど貝の交易が始まる。次いで弥生時代に入ると、沖縄特産のヤコウガイの交易が広域にわたって展開される。それは遠く北海道にまで及んでいたことが立証されており、「貝の道」と呼ばれる海洋交易ルートを通じて、早くも両辺境が結ばれていたことを示唆している。
 この貝交易で貝の交換財となったのは、土器やガラス玉、金属器といった品目であった。しかし弥生時代以降の本土農耕文化の影響はこの時期まだ沖縄には及ばず、狩猟採集経済は安定的に維持されていく。
 本土が古墳時代を過ぎて飛鳥時代に入ると、ヤマト国家による踏査の手が沖縄にも伸びてくる。『日本書紀』では推古朝の616年に掖久・夜勾・掖玖の人30人が来朝し、日本に永住したという記事が現れるのを皮切りに、南西諸島への遣使に関する記事が散見されるようになる。7世紀末、文武朝に南島(沖縄)から初めて正式の朝貢があり、これ以降、沖縄主要地域はヤマト国家に服属し、朝貢関係に入ったと見られる。そして平安時代以降、本土との交易は非公式の私貿易も含めていっそう拡大していく。 
 一方、北海道の狩猟採集文化は東北地方北部にもまたがる形で広がっており、民族的・文化的にも両者は一体で、交易関係も早くから始まっていたと見られる。また上述のように、「貝の道」を通じた広域の交易も本土の弥生時代以降展開され、南の沖縄ともつながっていた。だが、沖縄と同様、北海道にもなお農耕文化は伝播せず、いわゆる続縄文文化と呼ばれる狩猟採集文化が持続する。
 しかし、7世紀に入ると、遠征の実力をつけたヤマト国家による踏査の手は北辺の北海道にも伸びてくる。特に斉明朝期には、将軍阿倍比羅夫が北方に派遣され、渡島(北海道)の蝦夷らを服属させる記事が『日本書紀』に見え、この頃から蝦夷勢力はヤマト国家に服属するようになったと見られる。本土の奈良・平安時代以降、北海道蝦夷は東北蝦夷の居住域でもあった出羽国を介して和人(日本人)と活発に交易するようになる。
 こうして両辺境が単なる交易活動を超え、本土の農耕社会を基盤として発展してきたヤマト国家に服属し、本土との政治的な結びつきを持つようになったことは、伝統的な固有の狩猟採集経済を少しずつ変容させ、やがて本土経済に組み込まれていく長い過程の始まりであった。


コメント    この記事についてブログを書く
« 沖縄/北海道小史(連載第1回) | トップ | 次の記事へ »

コメントを投稿