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沖縄/北海道小史(連載第13回)

2014-02-27 | 〆沖縄/北海道小史

第五章 軍国期の両辺境(続)

【15】沖縄戦への道
 大日本帝国の南方進出策の中間点にすぎなかった沖縄では、北海道のような軍事化は当初進められなかったが、国民皆兵策の施行においては、遅れて本土並みの適用を受けるようになっていく。本土語の話せない沖縄出身兵士は軍隊内差別などの困難にも見舞われながら、日本軍兵士として献身していく。
 こうした沖縄の軍事的な日本統合は、一方では近代的な地方行政制度の導入や、内発的な民主化運動の成果もあって1912年に実現した国政選挙への参加といった限定的な民主化をセットで伴ってもいたのだった。
 沖縄の軍事化が明確な形をとって現れるのは、日米開戦後、戦局が悪化する中で、日本軍部・政府が沖縄を本土防衛上の要地として利用する策に出てからであった。
 南西諸島防衛の強化に着手した軍部・政府は沖縄各地で土地を強制収用し、飛行場の敷設に乗り出す。これは戦後、占領軍を送り込んだ米国がより大々的に同様の手法を採り、沖縄が「基地の島」にされていく先駆けとも言えた。
 こうした沖縄軍事化の集大成は、大戦末期1944年における陸軍第32軍の設置であった。これは沖縄に司令部を置く初めての軍団であり、米軍を主体とする連合国軍の上陸に備える守備隊の役割を担った。
 この第32軍守備下で発生したのが、沖縄近代史上最も悲惨な結果を招いた沖縄戦であった。この自滅的な戦闘をめぐっては、特に最期的に発生した一般住民の集団自殺が軍の命令によるものであったかどうかが議論される。
 これについては様々な見解があり、たとえ仮に軍の公式命令ではなかったとしても、集団自殺という特異な現象を伴った沖縄戦の本質は大戦の中の単なる激戦のエピソードではなく、本土が沖縄を盾として利用し、最後は捨て駒にしたという辺境切捨ての意義を持っていたことにあったと言える。
 同時に、連合国とりわけ米国にとっても、沖縄戦は日本の降伏を引き出す最初のカードであった。思えば、これは米国が鎖国日本に開国を迫った時に琉球上陸を足がかりとしたのと同じ戦略である。


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