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沖縄/北海道小史(連載第15回)

2014-03-26 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程(続)

【17】米軍支配下の沖縄
 沖縄は日本敗戦後、米軍の直接支配下に編入され、日本が主権を回復した1951年のサンフランシスコ講和条約でも引き続き、沖縄に対する米国の施政権が規定されたため、沖縄は本土の北辺・北海道とは全く異なる戦後史を歩むことになる。「皇民化」に続く「米民化」であった。
 このように、連合国の顔をした米国が沖縄を日本本土と分離して統治したのは、幕末の「黒船」による開国圧力の時以来、沖縄を対日戦略の要衝とみなしていたためと考えられる。しかし1949年以降、東西冷戦が開始されると、米国は対日戦略を超えて、沖縄を極東における軍事的要衝とみなし、米軍基地の建設・整備を精力的に推進する。「基地の島」の始まりであった。
 米国は50年、公式の沖縄統治機関として琉球諸島米国民政府を設置した。この機関は「民政府」と称されながら、実態は軍政機関であって、その長官は高等弁務官と改称された後も、一貫して米国陸軍の将軍が任命された。
 米国は当初、沖縄を群島ごと四地域に分け、民選知事を擁する群島政府を設置したが、民選知事が反米的な言動を取ることを懸念し、52年に改めて統一的な琉球政府を設置した。その長たる行政主席には沖縄人が任命されたが、琉球政府に自治権はほとんどなく、民政府の指令を執行する下部機関にすぎなかった。
 こうした非民主的な軍政統治体制の下、米国は沖縄各地で軍事力を背景とした土地の強制収用によって基地の建設を急ピッチで進めていったのだった。こうして、沖縄では雇用を含めた経済も米軍基地に依存するシステムが構築されていく。
 一方で、米国の強権的な手法に対し、沖縄人の反米感情は高まりを見せた。その最初の頂点は56年の「島ぐるみ闘争」に現れた。これは琉球政府の立法機関であった立法院が54年に行った「土地を守る四原則決議」を契機に起きた全島規模の反基地デモであった。この結果、基地用地借用に際しての高額地代の支払いなど、一定の歯止めがかけられたものの、本質的な解決には至らなかった。
 「島ぐるみ闘争」の56年には、沖縄人民党(後に日本共産党に合流)を率い、当時の反米派旗手だった瀬永亀次郎が那覇市長に当選したのも、選挙を通じた沖縄人の反米感情の発露と言えた。これに対し、当局は民政府系の琉球銀行による預金凍結や給水停止といった制裁措置で応じ、市議会を動かして不信任決議をさせたうえ、過去の投獄歴を理由に瀬永から被選挙権を奪って追放した。
 60年代に入ると、本土復帰の機運が高まり、祖国復帰協議会を通じた復帰運動が組織された。ベトナム戦争勃発後、沖縄米軍基地がベトナムへの出撃基地となると、本土のベトナム反戦運動とも交差して復帰運動はいよいよ活発化した。
 こうした情勢を見た米国も早期の沖縄返還に傾斜するようになり、68年には琉球政府行政主席の直接選挙を初めて実施、復帰派で革新系の屋良朝苗が当選した。そして翌69年にはついに、日米共同声明をもって72年の沖縄復帰が正式に発表されたのである。


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