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沖縄/北海道小史(連載第14回)

2014-03-12 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程

【16】戦後の北海道開発
 敗戦後の北海道には本州と同様、米軍を主力とする占領軍が進駐する一方、いわゆる北方領土についてはソ連軍が引き続き占領していた。こういう状況の下、戦後北海道史がスタートするわけだが、戦前との大きな相違は、北海道庁長官職が公選制となったことである。
 1947年に行われた初の道庁長官選挙では、日本社会党の公認を受けた若干35歳の道庁職員労組指導者・田中敏文が決選投票の末、当選した。田中は地方自治法制定後の51年に行われた第一回北海道知事選挙でも再選され、以後59年に退任するまで、実質三期にわたって知事を務めた。
 こうして、戦後の北海道は左派系道政からスタートすることになったのだった。このことは、北海道の開拓者精神を基盤とした革新的な気風の反映とも考えられる。
 田中道政は「北方生活文化の確立」を重点政策課題に掲げ、防寒住宅として不燃性コンクリートブロック住宅の建設を推進するなど、寒冷地北海道の暮らしの向上に焦点を当てた。
 しかし、この時期、中央政府では北海道の資本主義的な開発を計画しており、50年、地方自治法制定後廃止された北海道庁に代わる上からの開発指導機関として北海道開発庁を、翌年には運輸省等の統合直轄事業機関として北海道開発局を設置した。これらを通じて、中央直結型の開発を推進しようとの狙いであった。
 一方で、55年には中央政界で保守合同により自由民主党が結成されたことにも後押しされ、田中知事の退任を受けた59年の北海道知事選挙では保守系で旧内務官僚出身の町村金五が当選、以後、83年まで二代にわたる保守道政の中で上からの北海道開発の流れが確立される。
 他方、戦前からロシアを意識した北辺防衛の最前線であった北海道の位置づけは戦後も米ソ冷戦構造の中で継承発展され、北海道には占領終了後の54年に発足した自衛隊の主要基地が置かれ、今日に至っている。これらの基地の多くは米軍も一時利用可能であることから、一時利用施設を含めた面積で見れば北海道は沖縄を上回る米軍関連施設を抱えていることにもなる。
 北海道は、本州で革新自治体の誕生が相次いだ70年代には逆に保守道政の真っ只中にあったが、北海道の革新的風土は83年の知事選で社会党を中心とした左派の支持を受けた横路孝弘が当選した時、再び立ち現れた。
 以後三期にわたって連続当選した横路は上からの開発に対し、一村一品運動などの地域おこしに重点を置いた政策を進めるが、一方で国際競技会や地方博誘致などのイベント行政にのめり込み、特に88年の世界・食の祭典では大幅な赤字を出すなどの失政も見られた。
 95年に横路を副知事から継いだ堀達也知事は二期目で保守系相乗りとなり、03年の知事選では経済産業省出身の高橋はるみが当選し、保守道政に完全復帰した。とはいえ、高橋は東北地方を含めた北日本では初の女性知事であり(全体では4人目)、わずかながらここにも北海道の革新性は残されている。
 50年にわたって中央主導の総合開発を担ってきた北海道開発庁は01年の中央省庁再編を機に廃止され、地方分権化の流れの中で北海道も自立化を目指す時期に入った。しかし、北海道開発局は国土交通省の下に存置されるなど長年の中央主導開発からの脱却は容易でなく、かつて主要産業であった石炭産業を支えた炭鉱が閉鎖された後、破綻に陥った夕張市のような基礎自治体も存在するなど、自立化への課題は多い。
 他方、旧来の中央主導開発に対しては、アイヌ民族による裁判闘争という現代的な形態の抵抗運動も現われた。現代アイヌの拠点である日高地方で、ダム建設による伝統文化地域の水没を阻止することを目指した二風谷〔にぶたに〕ダム建設差し止め訴訟はその象徴的な事例であった。
 この訴訟では97年、札幌地裁がダム建設の差し止めは棄却しながらも、アイヌをそれまで政府が認めてこなかった先住民族として認知する画期的判決を下し、これを契機に同化政策の支柱であった旧土人法の廃止と、民族回復を規定するアイヌ文化振興法の制定というアイヌ政策の歴史的転換が導かれたのだった。
 しかし、それはすでに何世代にも及ぶ強制同化政策により、アイヌ語話者も激減し、アイヌ語が消滅危惧言語へと向かう中での、遅きに失した民族回復であるとともに、民族差別を明確に禁止する政策ではなく、長年の差別構造の根本的な変化につながるものとは言い難い。


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